高師久
高 師久(こう の もろひさ、? - 建武3年/延元元年6月20日(1336年7月28日))は、南北朝時代の武将。本姓は高階氏。高師直、高師泰、高重茂の弟。受領名は豊前守。
生涯[編集]
父は高師重。湊川の戦いで大敗した後醍醐天皇らが比叡山に逃げ、それを足利尊氏が追撃した際、比叡山が新たな戦乱の舞台となる。『太平記』巻17では足利尊氏は家臣の師重を大将に任命して比叡山を攻めさせたとされている。ただ、後述することになるが後に捕縛された際に師重が新田義貞から「高師直の養子」と言われているなど、明らかにおかしい部分がある。師重は師直の父であり、それが養子であること自体説明がつかない。そのため、『太平記』の記述は誤記では無いかと考えられている。
師久は比叡山攻撃の総大将に任命されるとその指揮を自らとって戦う。この時に発生した雲母坂の戦いで後醍醐天皇側の武将である千種忠顕を討ち取り、さらに攻め上がろうとしたが、比叡山の僧兵や新田義貞の猛烈な反撃を受けて次第に押されるようになる。結局、師久が率いる20万騎(この数は『太平記』でありがちな誇張と思われる)の多くは水飲峠の南北の谷に追い落とされて、谷底は死んだ人馬で埋め尽くされたと記されている。結局、師久は6月5日から6月20日までの合戦で新田義貞に敗れ、義貞の家臣である船田経政に生け捕られた。
この際に師久は義貞の前に引き出されて「将軍(尊氏)の執事である高武蔵守(師直)の養子である身が生き恥をさらすとは哀れな事よ」と嘲られ、周りにいた敵将からも「山王権現の神罰」などと言われて屈辱を受けたという。それに対して師久は「深手を負って動けず不覚をとったまでのことだ」と言って潔く斬られることを望み、義貞の命令で唐崎の浜において斬首され、その首は獄門にかけられたという。
参考文献[編集]
- 『太平記』