鈴木文治
鈴木 文治(すずき ぶんじ、1885年9月4日 - 1946年3月12日)は、労働運動家、政治家。友愛会会長、日本労働総同盟(総同盟)会長、衆議院議員(当選3回)などを歴任。1912年に友愛会を創立し、「日本労働運動の先駆者」「日本労働運動の父」と称される。
経歴・人物[編集]
宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の酒造家の長男に生まれた。1895年10月21日父とともに金成ハリストス正教会で受洗。1902年3月宮城県立宮城県第三中学校(現・宮城県古川高校)卒業。在学中に同郷の先輩・吉野作造と生涯にわたる親交を結んだ。1905年6月旧制山口高等学校卒業。中学卒業前後に生家が没落し、苦学する中で「秋吉台の聖者」本間俊平の感化を受けた。1909年7月東京帝国大学法科大学政治学科卒業。在学中に吉野作造、内ヶ崎作三郎、小山東助を通して海老名弾正の本郷教会に所属。吉野、海老坂らの影響や、大学4年時に受けた桑田熊蔵の講義で労働問題に関心を抱く。卒業後は印刷会社の秀英舎(現・大日本印刷)に入社。1910年東京朝日新聞社社会部に記者として入社、労働問題に取り組む。編集主任にまで進んだが、編集上の失敗のため1年半で退社した。
1911年ユニテリアン派の統一基督教弘道会(安部磯雄会長)に幹事として就職し、社会事業を始めた。そして1912年8月1日、労働者14人と労働組合・友愛会を結成し、会長となった。当初は労使協調主義・キリスト教的人道主義の立場から労働者の修養や労働争議の調停に当たり、添田寿一、小河滋次郎、高野岩三郎、桑田熊蔵、吉野作造ら開明的な学者・資本家・官僚の支援を受けた。1915年アメリカ労働総同盟(AFL)傘下の労働者と接触するため渡米、1916年AFL大会に出席するため渡米。2度の渡米を契機として労使協調主義・温情主義から労働組合主義に移行。友愛会は第一次世界大戦期を通して戦闘化し、1918年には約3万人の会員を擁した。1919年に大日本労働総同盟友愛会、1921年に日本労働総同盟(総同盟)に改称、1930年までその会長を務めた(1921~24年は名誉会長、後任は松岡駒吉)。反共主義・労働組合主義の立場を堅持し、大戦後に台頭した左派からは「ダラ幹」呼ばわりされた。
この間、1919年国際労働機関(ILO)の結成に参画、1924年以来ILO総会に労働代表として4回出席、亜細亜労働会議を結成。1921年労働者教育協会理事長、日本労働学校校長。1924年日本農民組合関東同盟会初代会長、1928年日本農民組合総同盟初代会長、翌年顧問。1930年の総同盟会長辞任後は、鎌倉雪ノ下教会長老会メンバー、総同盟顧問、ILO副理事、『内外社会問題調査資料』(1941年からは『内外労働週報』)の発行などの活動を行った[1]。
政治運動にも進出し、1926年12月5日、安部磯雄、吉野作造、片山哲らと社会民衆党の結成に参加、中央執行委員。1928年2月の第1回普通選挙に総同盟の拠点である旧大阪4区から立候補し当選。1930年2月・1932年2月の選挙では落選。1932年7月社会大衆党結成とともに顧問。1936年2月・1937年4月の選挙では社会大衆党公認で旧東京6区から立候補し当選。1940年の斎藤隆夫の反軍演説問題では、安部磯雄、片山哲、西尾末廣、米窪満亮、松永義雄、岡崎憲(旧社民系)、水谷長三郎、富吉栄二、松本治一郎(旧労農系)とともに党議に反して衆院本会議を欠席したため、3月9日に安部と松本を除く8名の代議士は主流派の旧日労系により社会大衆党を除名された(安部と松本は離党)[2]。5月7日に安部や西尾らと勤労国民党の結成を届け出たが、即日結社禁止命令が出された。
戦後、日本社会党の結成に参加し、顧問に推された。1946年3月、戦後初の総選挙に社会党から立候補を届け出た翌日、選挙運動中に急逝した。60歳没。鈴木のつくった流れは松岡駒吉、西尾末廣(1960年民社党を結成)らに引き継がれた。著書に『日本の労働問題』(海外植民学校出版部、1919年)、『国際労働問題』(文学社、1920年)、『労働運動二十年』(一元社、1931年)などがある。『労働運動二十年』は1966年に総同盟五十年史刊行委員会から復刻、1985年に「鈴木文治著「労働運動二十年」刊行委員会」から現代語訳が刊行されている。
渋沢栄一との関係[編集]
1915年カリフォルニア州での日本人移民排斥運動に対処するため、渋沢栄一らは鈴木文治を日本労働代表として全米労働大会に派遣した[3][4]。以来、渋沢は友愛会を支援し、2人は信頼関係を築いた。しかし、1919年に原敬内閣の肝煎りで労使協調を目的とした財団法人協調会が設立され、渋沢が鈴木に発起人に加わるように要請したところ、鈴木が拒否したため2人は決別した[5][4]。旧同盟系労組が「労使協調」という言葉の使用を避けるのは、左派が悪い意味で使うからだけではなく、協調会をめぐって鈴木が渋沢と決裂したことにも由来するとされる[5]。
出典[編集]
- ↑ 講演会「友愛会創立と総同盟会長辞任後の鈴木文治」(9月4日)の参加者募集! 友愛労働歴史館(2015年7月17日)
- ↑ 内田健三、中村勝範、富田信男、渡邊昭夫、安東仁兵衛『日本政治の実力者たち(3)戦後』有斐閣新書、1981年、64頁
- ↑ 二村一夫「《書評》吉田千代著『評伝 鈴木文治』」、富沢賢治編集代表『「産業空洞化」と雇用問題』御茶の水書房(社会政策学会年報第33集)、1989年
- ↑ a b 藤生明「渋沢栄一との決別 旧同盟系と「労使協調」の因縁(2)」論座(2019年5月22日)
- ↑ a b 藤生明「渋沢栄一との決別 旧同盟系と「労使協調」の因縁」論座(2019年5月22日)
参考文献[編集]
※上記の「出典」に挙げたものを除く。
- 「労働代表得票 第一候補は鈴木氏 同顧問は米窪、川村両氏【四日社会局発表】」『大阪朝日新聞』1924年4月5日付、神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」。
- 高木郁朗「鈴木文治」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年。
- 飯田鼎「友愛会の成立の歴史的意義 : その共済組合とストライキ団体の矛盾」『三田学会雑誌』Vol.70、No.6、1977年12月。
- 吉田千代「青年時代の鈴木文治 : 本間俊平とのかかわりを中心として」『三田学会雑誌』Vol.70、No.6、1977年12月。
- 塩田庄兵衛編集代表『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年。
- 鈴木 文治(スズキ ブンジ)とは - コトバンク
- 鈴木文治(すずきぶんじ)とは - コトバンク