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近衛文麿

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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近衛 文麿
このえ ふみまろ
生年月日 1891年10月12日
生誕地 東京府東京市
没年月日 1945年12月16日(満54歳没)
死没地 東京都杉並区
出身校 京都帝国大学法学部卒業
職業 政治家
政党 研究会火曜会
配偶者 近衛千代子
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近衛 文麿(このえ ふみまろ、1891年10月12日 - 1945年12月16日)は戦前から戦後における日本の政治家、公爵貴族院議長内閣総理大臣を務めた。戦後GHQによってA級戦犯に指定され、服毒自殺した。第79代内閣総理大臣の細川護熙は孫にあたる。

経歴[編集]

五摂家筆頭格である近衛家の長男として東京市麹町(現在の東京都千代田区)の近衛篤麿邸で誕生した。近衛家は系譜を遡ると皇族の血が入っている公家の中でも名門の家柄であり、その長男である文麿は生まれながらにして社会的地位と将来の公爵の爵位を約束されていた。生母の衍子は文麿が生まれてすぐに病没しており、衍子の妹で継母の貞子を実母と信じて育てられてきたが中学生の頃に事実を知った。この家庭の事情が悪かったことは文麿の屈折した性格を作る要因になったと後に本人が述懐している。1909年に学習院中等科を卒業し第一高等学校に入学。一高では当時の校長の新渡戸稲造の教養主義な教育方針に大きく影響を受けたとされる。一高卒業後、京都大学法科大学に入学した。またこのとき、毛利千代子を見初めて結婚している。

官僚・貴族院時代[編集]

京大を卒業すると西園寺公望の斡旋で内務省に入省する。入省後しばらくして西園寺に頼み第一次世界大戦パリ講和会議に参加した。弱冠27歳だった近衛の異例の大抜擢に世間が注目し、これ以降名門近衛家のプリンスとして国民の人気を集めることになる。しかしパリ会議では日本は代表団の中で内紛をしていたこともあり目立った貢献をできず、国際社会から不評を買った。近衛はこの結果に落胆したがこの会議で近衛が肌で感じた欧米中心の国際構造は後の近衛の外交に影響を与えている。 会議から帰国した近衛は貴族院議員として活動を始め政治の世界に参入する。貴族院議員としての近衛は非常にリベラルな立場を取っており、民意を体現する衆議院の決定に貴族院はなるべく反対するべきではないという考えを持っていた。当時は大正デモクラシーの真っ只中であり大衆の多くも貴族院に対して同様の考えを持っていた。近衛のポピュリスト的な政治姿勢がよくわかる一例である。1933年に徳川家達の後任として貴族院議長に就任。父の篤麿に続いて二代連続での貴族院議長就任は大きく注目を浴びた。この頃から既に首相候補として何度も名前が挙げられることになる。

大命降下拝辞と第一次内閣組閣[編集]

二・二六事件岡田恵介内閣が崩壊すると元老である西園寺公望から推薦され近衛に組閣の大命が下る。しかし皇道派に近い立場だった近衛は時期が悪いと考え体調不良を理由に拝辞した。そののち誕生した広田内閣林内閣も短命に終わり、近衛に再び組閣の大命が降下した。 第一次近衛内閣発足からわずか一か月後、盧溝橋事件が発生し日本と中華民国は戦争状態に入る。この時近衛は当初決まった不拡大方針を覆し兵力の増派を決定した。これにより日本は日中戦争への決定的な一歩を踏み出すこととなった。この背景には軍部と世論の積極論があり、軍部にさしたる後ろ盾の無く世論からの人気が権力の根源となっている近衛はこの両者に逆らう選択が出来なかったということがある。戦闘が拡大する中ナチスドイツを通じていわゆるトラウトマン工作という和平交渉を始めるが戦況の好調もあり、またしても積極派に押し切られ交渉を打ち切る。この時発した第一次近衛声明は「爾後國民政府ヲ對手トセズ」という文言があり日中講和の可能性を完全に断ち切ったことになる。以後汪兆銘を首班とする傀儡政権(南京国民政府)を支援して事態の打開を狙ったが不調に終わり内閣総辞職した。

首相再登板と太平洋戦争中[編集]

外交失策により首相退陣に追い込まれた近衛だったが大衆からの人気は衰えておらず再登板を望む声も大きかった。当時の国民が中国情勢をそこまで深刻に捉えていなかったということでもある。米内内閣が閣内不一致を理由に内閣総辞職すると近衛に三度目の組閣の大命が下った。第一次内閣総辞職からわずか1年半のことである。第二次内閣では新体制運動を展開しすべての政党を解散させ大政翼賛会を結成した。その一方で経済分野の新体制樹立には消極的で推進していた革新官僚を遠ざけるなどした。懸案だった対外関係では松岡洋右外務大臣を中心に主張されていた強硬策を採用し日独伊三国同盟を締結する。この同盟により対米交渉を有利に運ぼうと図ったがアメリカの態度を硬化させただけであった。その後日ソ不可侵条約を成立させ、さらなる強行論(南進論)を唱えた松岡を解任するために便宜的に内閣総辞職する。[1] 松岡以外の閣僚が留任して成立した第三次内閣では成立直後南部仏印進駐を決行した。これは太平洋戦争の回避不能点とされており、アメリカの対日石油禁輸を招いた。日米交渉は完全に袋小路に入り、もはや対米戦争は必至の状況に追い込まれたことから状況打開を図るために内閣総辞職した。 日米開戦後は東条英機らから英米に近い危険人物とみなされ憲兵に監視されていた。戦局が悪化した1945年2月に昭和天皇にいわゆる「近衛上奏文」を奏上した。この上奏文では戦局悪化による国民の困窮に乗じて共産主義勢力が革命を企てているとして早期の終戦を訴えている。しかし当時治安維持法による取り締まりで共産党は壊滅しており、そのような形跡は無かったと言われている。にもかかわらず共産革命の懸念を持っていたのは皇道派思想の影響が未だに近衛にあったことを示している。結局昭和天皇の「もう一度敵に打撃を与えてからでないと講和は難しいだろう」との見解で上奏文は退けられ終戦工作は数か月遅れることになった。

東久邇宮内閣[編集]

昭和20年(1945年)8月15日鈴木貫太郎内閣が敗戦の責任を取って総辞職すると、後任首相について木戸幸一平沼騏一郎の相談で皇族東久邇宮稔彦王を首班とし、援助のために近衛も入閣させることで合意し、昭和天皇もこれを承諾して8月16日から赤坂離宮を組閣本部として東久邇宮と近衛を中心として組閣作業が始まり、8月17日東久邇宮内閣が成立した[2]。近衛は無任所の国務大臣として入閣し、8月18日朝日新聞などは近衛を「副総理格」と評した[3]。これは今まで近衛が3度首相を務めた事、政界や軍部、民間に幅広い交友関係があり、十分な出自や爵位を有している事から内閣のまとめ役として期待されたものとされている[3]。しかし東久邇宮内閣は各勢力の寄せ集め内閣に過ぎず、近衛の関係者として入閣したのは小畑敏四郎のみであった[4]

敗戦により政党復活の機運が生まれ、近衛にも新党党首として出馬の打診が相次いだ[4]。しかし近衛自身は「余等の責任問題」として戦争に対する自己の責任を自覚していたとされ[4]、断っている。また近衛は東久邇宮内閣の退陣の時期を9月初旬には探っていたとされ、9月17日に木戸幸一に対して閣僚を全て代議士に更迭する事、つまり事実上の内閣交代を提案したという[4]。これによりひとまず外務大臣が17日付で重光葵から吉田茂に交代となった[4]。これは岩淵辰雄が日本の民主化を進めるために近衛を説得して行なった人事といわれる[4]。近衛は9月29日にも高木惣吉内閣副書記官長に早期退陣論を述べているなど、東久邇宮内閣の退陣の時期を探っていたようである[5]。また9月13日に近衛は占領軍の総司令官であるダグラス・マッカーサーと総司令部で会見している[5]

しかしこの頃から世論において近衛批判が表面化するようになる[6]9月21日の朝日新聞の社説である重臣責任論で「軍人が責任を既にとった以上、重臣を含む上層吏僚の引責こそ、新日本建設の第2楚石」と論じて近衛の戦争責任を問い、政界引退を求めた[6]。元々、近衛の戦争責任は日中戦争期からあったが、日独伊三国同盟東条英機内閣成立などについても近衛の責任が問われはじめ、風見章も(近衛を特定していないが)戦争責任は問われるはず、と言う始末だったという[6][7]

10月4日、近衛はマッカーサーと2度目の会談を行ない、軍閥や国家主義勢力を助長したのは共産主義勢力であると持論を述べた上で日本の共産化を防ぎつつ建設的なデモクラシー国家を建設する事を主張した[7]。マッカーサーは近衛の意見を有益としながらも憲法改正と選挙権の拡張を求め、日本側の改憲が遅ければ占領軍が改憲に乗り出す意向を示唆した[7][8]。なお、近衛はマッカーサーから改憲や民主化を示唆されたとされ、10月8日以降から改憲作業が開始されている[8][9]

なお10月4日、占領軍は東久邇宮内閣に山崎巌内務大臣の罷免を要求し、東久邇はこれを理由に10月5日に総辞職する[9]。後任首相に近衛を推す声もあったが、近衛は今出ると風当りが強く、この嵐の通り過ぎるのを待つ、と自らへの世論の批判の高まりを見て拒否した[9]。近衛自身は自己の戦争責任を清算するために次期首相就任を拒否して改憲作業に携わる事にした、とされている[9]

最期[編集]

憲法改正に意欲を見せていたが東久邇宮内閣が瓦解すると任を外れる。12月6日にGHQが近衛の首相時代の政策を問題視しA級戦犯に指定、逮捕命令を発する。逮捕を潔しとしなかった近衛は巣鴨プリズンへの出頭期限前日の12月16日に自宅で服毒自殺した。享年54であった。

人物[編集]

  • 現状打破政策を唱える革新派政治家と妥協的な華族の貴公子としての二面性を持った人物だった
  • 自殺の報に昭和天皇は「近衛は弱いね」と漏らしたという。
  • 「華冑界の新人」ともてはやされ大衆的な人気で総理大臣にまで上り詰めた一方で人気を権力基盤とするがゆえにポピュリズム(大衆迎合主義)に走ってしまった一面もある。
  • 首相退任後も大衆から絶大な人気があったが戦後A級戦犯に指定されると一転して太平洋戦争の大戦犯であるとして糾弾されるようになった。同じく戦犯とされる東条英機が首相在任中も不人気だったことを考えると近衛の毀誉褒貶の激しさが伺える。

略譜[編集]

一族[編集]

参考文献[編集]

  • 筒井清忠 『近衛文麿-教養主義的ポピュリストの悲劇-』(岩波書店、2009年) ISBN 978-4-00-600218-3
  • 古川隆久 『近衛文麿』(吉川弘文館人物叢書]、2015年)

注釈[編集]

  1. 大日本帝国憲法下では首相に大臣を罷免する権限が無かったため近衛を含む閣僚全員が一旦辞職し、再び近衛が組閣して松岡以外の閣僚を再任するという形をとった。
  2. 古川隆久 著『人物叢書‐近衛文麿』 2015年、P228
  3. 以下の位置に戻る: a b 古川隆久 著『人物叢書‐近衛文麿』 2015年、P229
  4. 以下の位置に戻る: a b c d e f 古川隆久 著『人物叢書‐近衛文麿』 2015年、P230
  5. 以下の位置に戻る: a b 古川隆久 著『人物叢書‐近衛文麿』 2015年、P231
  6. 以下の位置に戻る: a b c 古川隆久 著『人物叢書‐近衛文麿』 2015年、P232
  7. 以下の位置に戻る: a b c 古川隆久 著『人物叢書‐近衛文麿』 2015年、P233
  8. 以下の位置に戻る: a b 古川隆久 著『人物叢書‐近衛文麿』 2015年、P234
  9. 以下の位置に戻る: a b c d 古川隆久 著『人物叢書‐近衛文麿』 2015年、P235

関連項目[編集]