金正米吉
金正 米吉(かねまさ よねきち、1892年12月8日? - 1963年11月28日)は、労働運動家。元・日本労働組合総同盟(総同盟)会長。
金兵衛の筆名を持つ[1]。総同盟関西同盟会の機関紙『労働者新聞』に金兵衛の筆名で創作を書いた。「おっさん」の愛称で親しまれた[2]。
経歴[編集]
本人が生涯明らかにしなかったため、正確な本名や生年月日、生い立ちは不明である。『金正米吉追想録』によると、1892年に大阪市南区(現・中央区)の道頓堀橋付近の商家に生まれた。本名は○○タカシ。後年、兄から資金援助を受けていた。風貌から1891年3月生まれの西尾末廣よりも年長だった可能性がある。佐賀出身説、堺出身説は事実でない可能性が高い[2]。都新聞の労働記者であった野口義明の『無産運動総闘士伝』(社会思想研究所、1931年)によると、1892年12月19日佐賀市白山町生まれ[2]。パンフレット『日本労働総同盟の活動』(総同盟本部、1932年)によると、1892年12月佐賀県生まれ[2]。金正が1935年に届け出た戸籍によると、本籍地は大阪市北区高垣町、父母不明、出生日は1892年月日不明[3]。金正が戦後書いた経歴によると、1892年12月8日生まれ[2]。各種人名事典には8月8日[4][5][6][7]、または12月8日生まれと記載されている[1][8][9][10]。
1907年に学校でのトラブルが原因で親と喧嘩して家出した。炭鉱の汽罐火夫として働き、三井三池炭鉱の万田坑をはじめ、九州の炭鉱を転々とした。1909年頃には大阪に帰り、大正橋付近の伸銅所で火夫として働くなど、大阪の工場を転々とした。1917年に友愛会大阪連合会に入会。1920年に日本人造肥料会社で組合をつくったため解雇されたが、解雇予告手当14日分約30円を勝ち取り[2]、「解雇予告手当獲得の元祖」といわれた[4]。1921年9月大阪合同労働組合結成で常任幹事となり、のちに会計や組合長を務めた。同年に総同盟大阪連合会の常任書記となり、西尾末廣の女房役として、関西同盟会や大阪連合会の会計・主事などを務めた[2]。以後、因島争議をはじめ多数の争議を指導した[11]。大阪鉄工所因島工場(のち日立造船因島工場)の因島労働組合を指導し、1923年8月と1924年5月の大争議の際に傷害罪で検挙された[1]。
1925年4月の総同盟内左派による刷新運動に反対する大阪連合会声明の起案に参画し、同年5月の総同盟第1次分裂以降は一貫して反共主義・労働組合主義の立場をとった[4][1]。1927年11月社会民衆党兵庫県第二区支部をつくった[2][1]。1928年10月総同盟中央委員[1]。1929年8月に本山茂貞、鈴木悦次郎、山内鉄吉、大矢省三ら総同盟大阪連合会・大阪金属の左派と対立して、西尾末廣らと大阪連合会を脱退、総同盟現実派大阪連合会を結成。同年9月に総同盟中央委員会が左派の除名、現実派大阪連合会の解散・改組を決定し、除名された左派は労働組合全国同盟を結成(総同盟第3次分裂)[12]。1930年6月の第14回ILO大会に鈴木文治労働代表の随員として出席。1930年9月総同盟大阪連合会会長。1932年9月に総同盟、全国労働組合同盟(全労)、日本海員組合などで日本労働組合会議が結成され、総同盟から副議長に松岡駒吉、評議員に西尾末廣、金正米吉、斎藤健一が選出された。1936年1月に総同盟と全労が合同して全日本労働総同盟(全総)が結成され、引き続き中央委員に選出。大阪における合同は難航したが、1936年10月に合同大会を開催し、全総大阪連合会事業部長に選出[2]。1940年7月の総同盟解散に際しては弾圧を受けても反対との立場をとり、敗戦まで役職につかなかった[1]。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の大阪府第3区に非推薦で立候補し落選した[13]。
1945年8月の敗戦直後から西尾末廣、前田種男、大矢省三らと大阪地方の労働運動再建に従事。同年10月10日の全国労働組合組織懇談会に出席し、労働組合組織中央準備委員会(11月労働組合総同盟準備会)の委員に就任。同月25日に労働組合関西地方結成懇談会をもち、準備委員会(11月労働組合総同盟関西地方準備会)の委員長に就任。1946年1月労働組合総同盟結成で中央委員。同年2月総同盟大阪連合会結成で会長[14]。同年6月大阪繊維産業労働組合結成で組合長。同年7月全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)結成で副会長。同年8月日本労働組合総同盟(総同盟)結成で副会長。1949年11月の総同盟第4回全国大会では左派が指導権を握り、副会長から落選。1950年の総評結成後は高野実派の総同盟解体方針に反対し、1951年6月に松岡駒吉、菊川忠雄らと総同盟を再建、中央執行委員に選出。1952年8月に松岡にかわって総同盟会長に選出。関西産業復興会議副議長(1947年1月-1948年4月解散)[2]、持株会社整理委員会委員(1947年6月-1951年7月解散)[15]、国家公安委員(1948年3月-1963年7月)、関西労働金庫初代理事長(1952年7月-)[2]、世界民主研究所監事も務めた[16]。
1955年に設立された日本生産性本部の生産性向上運動を支持、総同盟の参加を推進し、1956年3月に副会長、4月に関西地方本部顧問に就任した[1]。1958年10月国会提出の警察官職務執行法(警職法)改正案に国家公安委員として参画。警職法反対闘争が高揚する中で改正を支持して強い批判を浴びた[4]。1958年10月の総同盟第13回全国大会で会長に再任されたものの、国家公安委員との兼任が組織内から問題視され、11月8日に総同盟会長を辞任すると古賀専総主事らに辞意表明、1959年1月に辞任した。国家公安委員、総同盟大阪連合会会長の地位には留まった。1959年臨時税制調査会委員、日本銀行参与。1963年11月28日、大阪市立城北市民病院でくも膜下出血のため死去。死去当時、総同盟大阪連合会会長、関西労働金庫理事長、憲法調査会委員などを務めていた[2]。
1968年9月に金正米吉追想録編集委員会(代表委員:西尾末広、基政七)が発足した。1968年11月に『金正米吉遺稿・年譜』(総同盟五十年史刊行委員会編集・発行)が刊行された。1969年10月に『金正米吉追想録』(総同盟五十年史刊行委員会編集・発行)が刊行された。『金正米吉追想録』には金正の小伝、追悼記、金正について語る座談会、遺稿、年譜が収められている。1971年1月に東京都港区芝の友愛会館に鈴木文治、松岡駒吉、金正米吉の3人の胸像が設置された。
戦前の総同盟の役職[編集]
大阪合同労働組合[編集]
- 1921年9月 - 常任幹事[17]
- 1924年8月 - 会計[18]
- 1926年3月 - 組合長、会計
- 1927年3月 - 組合長、財政部長[19]
- 1931年8月 - 組合長[20]
- 1937年2月 - 総同盟大阪合同労働組合と全労大阪化学一般産業労働組合が合同して大阪合同労働組合を結成。組合長[21]
大阪連合会[編集]
- 1921年9月 - 総同盟大阪連合会新家支部長
- 1921年9月頃(大阪合同常任と同時) - 総同盟大阪連合会会計代理
- 1921年10月 - 総同盟大阪連合会会計常務委員
- 1923年3月 - 総同盟大阪連合会会計[17]
- 1924年5月 - 総同盟大阪連合会主事[1](再任)[18]
- 1925年5月 - 総同盟大阪連合会会計
- 1926年5月 - 総同盟大阪連合会財政部長
- 1927年4月 - 総同盟大阪連合会執行委員[19]
- 1928年4月 - 総同盟大阪連合会法律部長[22]
- 1929年8月 - 総同盟現実派大阪連合会教育出版部長[23]
- 1930年9月 - 総同盟大阪連合会会長[22]
- 1931年10月 - 総同盟大阪連合会主事(再任)
- 1931年12月 - 総同盟大阪連合会事業部長[20]
- 1936年11月 - 全総大阪連合会事業部長[24]
- 1938年10月 - 全総大阪連合会副会長兼事業部長[21]
関西労働同盟会[編集]
- 1923年4月 - 関西労働同盟会会計[18]
- 1929年11月 - 総同盟第18回全国大会時点で関西労働同盟会主事
- 1930年8月 - 関西労働同盟会を改組。主事[22]
- 1936年12月 - 新関西同盟会結成大会。主事[21]
総同盟本部[編集]
- 1928年10月 - 総同盟中央委員[1]
- 1931年11月 - 総同盟中央委員(再任)、争議部長[20]
- 1934年11月 - 総同盟中央委員(再任)、部長には不就任[25]
- 1937年7月 - 全総国際部長[21]
- 1939年11月 - 総同盟教育出版部長[26]
出典[編集]
- ↑ a b c d e f g h i j 塩田庄兵衛編集代表『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年、176-177頁
- ↑ a b c d e f g h i j k l 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年
- ↑ 福岡福一「金正さんにまつわる伝説」、総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年
- ↑ a b c d 山田宏二「金正米吉」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、341-342頁
- ↑ 平凡社教育産業センター編『現代人名情報事典』平凡社、1987年、269頁
- ↑ 山田宏二「金正米吉」、朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、476頁
- ↑ 367日誕生日大事典の解説 コトバンク
- ↑ 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年
- ↑ デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 コトバンク
- ↑ 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
- ↑ 高木郁朗監修、教育文化協会編『日本労働運動史事典』明石書店、2015年、70頁
- ↑ 村山重忠「<論文>日本労働総同盟の第三次分裂と労働組合全国同盟の成立」『社會勞働研究』17巻、1964年
- ↑ 翼賛政治体制協議会大阪府支部編『翼賛選挙を顧みて』楠野泰夫、1942年
- ↑ 広川禎秀「産別会議関西地方会議の成立過程――大阪地方を中心にして」『人文研究』33巻12号、1981年
- ↑ 持株会社整理委員会編『日本財閥とその解体1』原書房、1973年、159頁
- ↑ 福家崇洋「一国社会主義から民主社会主義へ――佐野学・鍋山貞親の戦時と戦後」『文明構造論』Vol.9、2013年
- ↑ a b 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、64-65頁
- ↑ a b c 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、462-463頁
- ↑ a b 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、464-465頁
- ↑ a b c 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、468-469頁
- ↑ a b c d 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、472-473頁
- ↑ a b c 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、466-467頁
- ↑ 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、114頁
- ↑ 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、156頁
- ↑ 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、470-471頁
- ↑ 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、474頁
関連文献[編集]
- 日立造船労働組合『戦前の因島労働運動史』日立造船労働組合因島支部、1965年。
- 鍋山貞親『日本の反省 鍋山貞親選集 上巻』ジャーナル社、1973年。
- 佐長史朗「金正米吉」、現代革命運動事典編集委員会編『現代革命運動事典』流動出版、1981年。
- 天池清次『労働運動の証言――天池清次 同志とともに』日本労働会館、発売:青史出版、2002年。