ベニート・ムッソリーニ

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ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883年7月29日 - 1945年4月28日)は、イタリア政治家軍人である。

人物[編集]

幼い頃から成績が優秀で、真面目な性格であった。小学校の教員では飽き足らず、高等師範学校に通って数か国の言語を取得し、実業学校外国語を教えるなど、努力を重ねて地位を高めていった。教員として人を指導する能力を磨いたことから政治家への道が開けた。

生誕[編集]

1883年7月29日イタリア王国エミリア=ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県のプレダッピオ市ドヴィア地区に、商人の父、アレッサンドロ・ムッソリーニと教員の母、ローザ・マルトーニの長男として生まれた。三人兄妹の一番上の兄となり、弟のアルナルド、妹のエドヴィージェがいる。

教員[編集]

1901年に師範学校を卒業すると小学校の教員となる。優秀な教員で、生徒や保護者からの評判もよかったがすぐに辞めてスイスに移住する。1904年11月にイタリアに帰国し、教員だった母の代わりに再び教壇に立った。

兵士[編集]

1905年1月に徴兵されてヴェローナ狙撃部隊に入る。入隊後まもなく母は亡くなって、一時的に帰郷するも1906年9月まで兵役を続けて除隊する。

軍人[編集]

1915年5月24日にイタリアが第一次世界大戦に参戦すると、1915年8月31日にベルサリエーリ狙撃部隊に下士官として配属される。1917年2月には訓練中の暴発によって重傷を負っている。戦傷兵として8月に帰国している。

イタリア社会党[編集]

1913年10月の総選挙でイタリア社会党の候補として出馬。社会党は躍進したが、ムッソリーニは落選している。1914年11月にはムッソリーニはイタリア社会党を除名されている。

イタリア戦闘者ファッシ[編集]

1919年にムッソリーニは政党「イタリア戦闘者ファッシ」を結党。1919年11月16日の総選挙に打って出るも、地元のミラノでさえ4800票しか獲得できな惨敗を喫した。

1921年5月15日の選挙では第三党に躍進。

クーデター[編集]

1922年10月24日ルイージ・ファクタ政権に対してクーデターを実行。ファクタは戒厳令によって対抗しようとしたが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が戒厳令への署名を拒否する。そして、ムッソリーニはファシスト政権を樹立することになった。

独裁体制[編集]

野党への選挙妨害、ファシズムに抵抗するジャコモ・マッテオッティらの暗殺などによってファシズム政権を確立。

戦争への道[編集]

エチオピアを征服しようと第二次エチオピア戦争を起こし、国際連盟経済制裁を受けるも、国際連盟の反対押し切ってエチオピアを併合した。

1940年9月27日に日独伊三国同盟を結んでドイツ日本と同盟を結ぶ。そして、第二次世界大戦では枢軸国として参戦した。

解任[編集]

第二次世界大戦で戦局が芳しくなく、ムッソリーニへの責任を追及する動きが強まる。1944年7月24日のファシズム大評議会は、賛成19人・反対7人でグランディ動議が可決されてムッソリーニの責任が追及。翌日に首相を国王によって解任されて逮捕される。

アペニン山脈のグラン・サッソのホテルに幽閉されたムッソリーニは、ムッソリーニを利用しようと考えたヒトラーによって救出。イタリア社会主義共和国の首班とされ、ドイツ第三帝国の傀儡政権を樹立させられる。

処刑[編集]

1945年4月27日未明、クラレッタ・ペタッチらと共にミラノに向かう途中に捕まったムッソリーニは、翌日にはクラレッタらと共に処刑された。

現代の評価[編集]

こんなムッソリーニであるが、実はイタリア人からの評価はそこまで低くない。ムッソリーニは独裁者の面が強調されがちだが、内政ではユダヤ人を保護したり、国力に合わせて対外政策を慎重にしたり、マフィアを撲滅したりと良いこともしている。

現在イタリアの首相であるメローニ氏はファシスト党の流れを汲む政治団体に参加していたことでも有名。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 人と思想130 ムッソリーニ ファシズム序説 ISBN 4-389-41130-6(著者:木村裕主清水書院発行)