日本労働組合総同盟

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日本労働組合総同盟(にほんろうどうくみあいそうどうめい)は、1946年8月に結成されたナショナルセンター。略称は総同盟

概要[編集]

1945年10月10日に旧総同盟会長の松岡駒吉の招請により東京・新橋の蔵前工業会館で全国労働組合組織懇談会が開催された。招請にあたり産報運動の推進者と旧評議会、旧全協など戦前の日本共産党系組合の関係者は除かれ、旧総同盟、旧全労、旧全評、旧交総など戦前の右派・中間派・合法左派の組合指導者110余名が集まった。討議の結果、労働組合組織中央準備委員会を結成し、委員長の松岡をはじめとする28人が中央準備委員に就任した。1945年11月27日に労働組合組織中央準備委員会は労働組合総同盟準備委員会に名称を変更し、1946年1月17日の拡大中央準備委員会で労働組合総同盟(総同盟)に名称を変更した。会長は松岡駒吉、総主事は原虎一、副主事は渡辺年之助高野実

1946年8月1日から3日間、東京・神田の共立講堂で第1回全国大会を開催し、日本労働組合総同盟(総同盟)を結成した。会長は松岡駒吉、副会長は金正米吉伊藤卯四郎重盛寿治、総主事は原虎一。結成時の勢力は1699組合、85万5399人。運動方針としては労働組合主義、現実主義の立場をとり、産業復興運動、団体協約の締結などに取り組んだ。組織方針としては産別単一組織の全国的同盟体を目指しつつ、都道府県別の地方連合会を重視した。地方連合会は中央委員会の統制下に置かれ、加盟組合は本部に同盟罷業通告義務を有するという中央集権制、指導的幹部の職業的専従制をとった。政治的には日本社会党を支援し、1946年8月21日に結成された共産党系の全日本産業別労働組合会議(産別会議)と並ぶ二大全国組織として活動した。1947年3月10日に産別会議とともに全国労働組合連絡協議会(全労連)を結成したが、1948年6月28日に脱退した。1950年7月11日に産別会議を脱退した民同派の組合や中立組合などとともに日本労働組合総評議会(総評)を結成した。

結成当初から右派が指導権を握っていたが、1949年11月の第4回大会で高野実総主事を中心とする左派が執行部の多数派を占めた。1950年5月の第2回中央委員会で高野が総同盟解体、中産業別整理、単産ごとの総評加盟を主張する組織改革案を提案し、総同盟解体に反対する右派との対立が表面化した。1950年11月30日から4日間、川崎市公民館で第5回大会を開催したが、ブラッティ書簡問題[注 1]の調査委員会報告の採決をめぐって全繊同盟代議員が退場した。続いて総同盟解体反対派の提案の審議の取り扱い方法をめぐって反対派代議員が退場し、総同盟は事実上分裂した。会場に残った左派は総同盟を解散し、単産ごとに総評に加盟する方針を決定した。これに基づき1951年3月28日に京橋公会堂で開催した第6回大会で総同盟は解散した。

総同盟解散に反対する右派は1950年12月3日に川崎市の宮本館で開催した産別、府県連合会代表者会議で日本労働組合総同盟刷新強化運動本部を結成した。1951年3月29日に衆議院会館第一会議室で開催した全国代表者会議で総同盟存続を確認し、1951年6月1日に浅草公会堂で開催した第6回大会で総同盟を再建した。会長は松岡駒吉、副会長は前田種男基政七熊本虎蔵、総主事は菊川忠雄、主事は古賀専若杉熊太郎。1954年4月23日に総評を脱退した3単産(全繊同盟・海員組合全映演)とともに全日本労働組合会議(全労会議)を結成した。全労会議と総同盟の二重構造が組織競合問題に発展したこと、民社党の選挙地盤を整備する必要があることから、1962年4月26日に全労会議から総同盟と全官公がいったん分離し、3団体で全日本労働総同盟組合会議(同盟会議)を結成した。1964年11月10日に総同盟は第19回大会で解散、全労会議は第12回臨時全国大会で解散し、11月12日に全官公とともに全日本労働総同盟(同盟)を結成した。

産別組織[編集]

1948年時点[編集]

出典:[1]

1954年時点[編集]

出典:[2]

役員[編集]

歴代会長[編集]

労働組合組織中央準備委員会[編集]

1945年10月10日の全国労働組合組織懇談会で選出された中央準備委員28人。

1945年11月10日時点では仲橋喜三郎が抜け、井堀繁雄(総同盟)、伊藤卯四郎(総同盟)、豊島利右エ門(総同盟)、大門義雄(瓦斯工組合)、管野初雄(瓦斯工組合)が加わり、32人となっていた。

出典:[3][4][5][6]

第1回全国大会で選出された役員[編集]

出典:[7]

本部[編集]

  • 東京都港区芝三田四国町2-6 日本労働会館(労働組合組織中央準備委員会)
  • 東京都千代田区神田神保町2-17
  • 東京都中央区京橋2-4 明治屋ビル7F(1947年10月~1949年7月)
  • 東京都港区芝三田四国町2-6 総同盟会館(1949年7月~)[8]

脚注[編集]

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  1. ブラッティ書簡はGHQ労働課のヴァレリー・ブラッティ教育班長から日紡労組犬山支部副支部長・全繊同盟執行委員の徳田千恵子、総同盟総主事の高野実を経由して全繊同盟会長の滝田実に渡された私信。日紡労組長・全繊同盟綿紡部会長の高山恒雄を会社側の手先であると批判したもの。

出典[編集]

  1. 日本労働年鑑 戦後特集(第22集)PDF
  2. 日本労働協会編『全日本労働組合会議(全労)資料目録PDF』日本労働協会、1968年
  3. 総同盟五十年史刊行委員会編『総同盟五十年史 第3巻』日本労働組合総同盟、1968年、35-36頁
  4. 楠精一郎「二・一ゼネストと総同盟の対応」『高崎経済大学論集』第26巻第3号(通巻82号)、1983年
  5. 吉田健二「産別会議の成立過程-1-」法政大学社会労働問題研究センター、法政大学大原社会問題研究所編『研究資料月報』312・313号、法政大学大原社会問題研究所、1984年
  6. 山花秀雄『山花秀雄回顧録――激流に抗して六〇年』日本社会党中央本部機関紙局、1979年、280-281頁
  7. 総同盟五十年史刊行委員会編『総同盟五十年史 第3巻』日本労働組合総同盟、1968年、1323-1324頁
  8. 総同盟五十年史刊行委員会編『総同盟五十年史 第3巻』日本労働組合総同盟、1968年、444頁

主要参考文献[編集]

  • 総同盟五十年史刊行委員会編『総同盟五十年史 第3巻』(日本労働組合総同盟、1968年)
  • 楠精一郎「二・一ゼネストと総同盟の対応」(高崎経済大学編『高崎経済大学論集』第26巻第3号(通巻82号)、1983年)
  • 吉田健二「産別会議の成立過程-1-」(法政大学社会労働問題研究センター、法政大学大原社会問題研究所編『研究資料月報』312・313号、法政大学大原社会問題研究所、1984年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]