大政翼賛会

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大政翼賛会(たいせいよくさんかい)は戦時中日本で成立した機関である。

概要[編集]

前身[編集]

新体制運動が起こり、1940年に大日本帝国での二大政党である立憲民政党[注 1]立憲政友会に加え中野正剛が党首の国家主義政党の国民同盟、安部磯雄・麻生久が合流し親軍的な政党となった無産政党である社会大衆党が合併して完成した[注 2]

成立[編集]

1938年に成立した国家総動員法に加え1940年に日中戦争の長期化によりナチ党のような強い政党が必要だと考えた東條英機近衛文麿などの首脳部が設立した。1941年に行われた第21回衆議院議員総選挙では8割以上の議席を確保し、国政の中心を担い、戦時中の独裁機関として成立していた[注 3]。また、労働争議を起こしていた労働組合なども大政翼賛会に吸収合併された。

解体[編集]

この組織は1945年(昭和20年)6月まで存在した。解体後は敗戦後の混乱を経て、政党が復活し、立憲民政党の系譜を継ぐ日本進歩党、立憲政友会の系譜を継ぐ日本自由党、戦前の無産政党の系譜を継ぐ日本社会党灘消費購買組合などを支持母体とする日本協同党などが結成され、日本共産党も政党活動を再開した。

組織[編集]

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下部組織[編集]

  • 道府県支部
  • 大都市支部
  • 市区町村支部
  • 町内会
    • 隣組
  • 部落会

傘下組織[編集]

その他[編集]

1941年の衆院選での翼賛会非推薦での当選者として、安倍寛安倍晋三の父方祖父)や三木武夫が知られる。

注釈[編集]

  1. 明治期の立憲改進党
  2. 徳田球一党首の日本共産党は一部が参加したが、党としては参加しなかったため非国民とされ牢につながれた。
  3. ただ、親与党ではない候補が選挙を妨害されるなどされたため「翼賛」選挙と揶揄された。