穴山 信邦(あなやま のぶくに、? - 永禄9年12月5日[1](1567年1月15日))は、戦国時代の武将。甲斐河内の領主である穴山氏の一族で、穴山信友の次男。通称は彦八郎[1]。生母は武田信虎の次女の南松院[1]。兄に信君。弟に九郎。武田信玄の甥に当たる。諱に関しては信嘉[1](のぶよし)の説もある。義信事件で武田義信に加担したため、永禄9年(1566年)12月に信玄より自害[1]を命じられたという。法名は慈眼院殿玄室芳頓禅定門[1]。