上杉謙信
上杉 謙信(うえすぎ けんしん、享禄3年1月21日(1530年2月18日) - 天正6年3月13日(1578年4月19日))は、戦国時代の戦国大名、武将。別名・官位などは虎千代、平三、景虎(かげとら)、政虎(まさとら)、輝虎(てるとら)、宗心、弾正少弼、関東管領。越後守護代長尾為景の末子、母は青岩院。元は桓武平氏鎌倉氏流越後長尾氏の9代目の当主だった。のちに上杉憲政の養子として迎えられて関東管領上杉氏(山内上杉氏)の当主となり、子孫は米沢藩の藩主家となった。仏教に信心が深かったため、生涯を通して非妻帯者を貫いた。それゆえ実子はおらず、すべて養子である。養子に畠山義春、山浦景国、上杉景虎(北条氏康の子)、景勝(長尾政景の子)。
生涯[編集]
享禄3年、越後守護代長尾為景の末子として生まれた。母は清岩院という。天文5年に父が没した後、春日山の林泉寺に預けられた。天文12年には栃尾城主となり、古志長尾氏の支援を受けて中越地方を統一した。しかし、この頃より家臣らが兄の長尾晴景よりも謙信が家督を相続すべきとの声が高まり、やがて晴景や義兄の長尾政景との対立が深まったという。天文17年、兄の晴景の家督を継承するために春日山城に入り、天文20年には政景の反乱を鎮圧して家臣とした。天文22年には川中島で武田信玄と争っている。その後上洛して後奈良天皇の勅令を賜り、越前朝倉氏や足利将軍家、本願寺など諸勢力と連携して弘治元年に再び川中島で信玄と相まみえた。在陣は5ヶ月にも及んだため、家臣の国人衆が不満を抱いた。これを見て謙信は隠居を誓い、比叡山へ向かったが、家臣の強い要望によって帰国した。弘治3年、飯山城を攻撃してきた信玄を迎撃すべく善光寺に陣を張ったが決着しないまま戦いが終わった。同年には関東管領上杉憲政が越後へ落ち延びてきて、謙信にその跡を継がせようとしたため、永禄2年、謙信は再度上洛して将軍の許しを得た上で山内上杉氏の家督を継いだ。永禄4年には大軍を集めて後北条氏領へ攻め込んで小田原城を包囲したが、氏康の反撃に遭って厩橋城まで退いた。永禄8年には再び川中島で信玄と対峙し、八幡原で戦火を交えた(川中島の戦い)。しかしまたもや決着はつかず、謙信は善光寺に退却したのち越後へ帰還した。その後は周辺勢力との小規模な衝突と外交戦を繰り広げていたが、元亀3年に信玄が西上作戦を開始すると、謙信は織田信長と同盟し、富山城の神保氏を追放して攻略、天正元年に信玄が没すると越中を平定した。同年のうちに本願寺と同盟して織田信長に敵対、七尾城に篭った畠山氏を滅ぼし、手取川の戦いで柴田勝家率いる織田軍を大敗させた。しかし、天正6年の関東出征を目前にして脳溢血で死去した。謙信は6尺近い体格だったが、和歌をよくし、信心の深い人物であったと伝わる。
謙信の健康状態について[編集]
自らを毘沙門天の化身と信じ込んで総大将でありながら常に軍勢の先頭に立って幾度も敵陣に突入したことなどから、精神的な疾患があった可能性がある。
不淫戒(性行為を行なわない事)を守り続け、生涯にわたり女性と関係せず、ストイックに生き続けたことから双極性障害の可能性がある[1]。双極性障害は以前、躁鬱病と呼ばれていた心の病であり、気分が高揚する躁状態と気分が落ち込む欝状態が繰り返され、極めて不安定な精神状態に陥るが、謙信が激昂しやすかったのはこれが関係しやすかったのかもしれない[2]。躁鬱状態の時には誇大妄想が見られるのがこの病気の特徴なのであるが、思い込みが激しくて突発的な行動をとりやすくなる。これは自分を毘沙門天の化身、高野山への出家騒動を起こしたりしたのも、その病気が一因している可能性が高い[2]。
大酒飲みで、謙信が愛用した直径12センチにもなる大盃である「馬上盃」が現存するが、行軍中の馬上でも飲酒をしていたという記録がある[2][3]。毎夜のごとく深酒を続けていることから、アルコール使用障害(アルコール依存症)の傾向があった可能性が高い。また酒の肴は塩か梅干しだけだったというが、料理をろくに食べずに酒だけ飲むのは身体に悪く、さらに塩や梅干しの大量摂取は塩分過多にもなる。少ないおかずで白米を食べていたのであれば、おかずの塩分が濃くなっていった可能性がある。このような塩分過多と飲酒のためか、41歳のときに謙信は脳卒中で倒れている。このときは回復したが、左半身麻痺の後遺症が軽度ながらも残ったようである。これで摂生したならば長命の可能性もあったが、その後も飲酒と塩分過多の大量摂取は続いたようである[3]。
最期に関しては酒宴の際に厠で白目をむいて倒れた後、いびきをかいて眠り続け、4日間昏睡した後に1度は意識を取り戻すも喋ることはできず、死亡したという。この症状から高血圧性の脳内出血、すなわち脳卒中を再発して死亡したものと推測されている[3]。