高遠頼継
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高遠 頼継 たかとお よりつく | |||||||||||||||||||||||
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高遠 頼継(たかとお よりつぐ)は、戦国時代の武将。信濃国衆で、伊那郡高遠城(現在の長野県伊那市高遠町)主。諏訪氏の庶家・高遠氏の当主。
略歴[編集]
当時の高遠家は諏訪家と友好関係にあったものの、野心家だった頼継は諏訪惣領の地位を狙っており、天文11年(1542年)に諏訪頼重を攻める武田晴信に呼応して自らも頼重を攻めた。そして頼重が晴信により自害させられると、諏訪惣領を自称して諏訪領を晴信と分割支配する。しかし、この分割に不満を抱いた頼継はやがて小笠原長時や藤沢頼親らと結んで挙兵し、武田領を襲撃して上原城を奪い、諏訪全土を支配する。しかし、惣領を自分の妹の子・寅王に据えようと考えていた晴信はこれを許さず、また強引な頼継の諏訪領支配に他の諏訪一門からの支持が全く得られなかったこともあり、同年に晴信に攻められて宮川の戦いで弟の頼宗を失う大敗を喫して敗走した。
天文14年(1545年)、晴信に高遠城を攻められて降伏する。その後は高遠城の在城は認められたものの、密かに小笠原長時などとなおも連絡を取り続けており、また晴信からも長年にわたる抵抗などから忠心を疑われていたとされる。そのため、甲府に召喚されるが、その後には特に目立った活動は無い。
そして天文21年(1552年)に、突如として晴信から自害するように命じられた。これにより高遠家は滅亡したとされるが、晴信の4男・勝頼が近年、諏訪家ではなく高遠家の家系を継承していたのではないかとする異説があり、それならば高遠家は存続していたことになる。なお、頼継には子孫の記録が全く無いため、子供がいなかった可能性がある。