松平記
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概要[編集]
徳川家康の祖父で名君・名将と謳われた松平清康の変死事件(森山崩れ)から、家康の嫡子であった松平信康の自害についてまでを記録した軍記である。題名は恐らく、徳川氏ではなく松平氏を中心にした事績を記録したものであるから名付けられたものと見られる。全6巻。なお、この軍記には『阿部家夢物語』が付けられている。
成立年代や著者は不詳。ただ、5巻で家康の父・松平広忠が伝通院(家康の生母)と離別して刈谷城まで送り返した際、その警固を務めたのが「作者の父」であるとしている[注 1]。これが事実なら、作者の父は松平氏の古くからの家臣であると推定でき、その子供であるなら恐らく成立年代もそこまで後代ではない。信康が自害したのが天正7年(1579年)であるから、それから考えても早くて天正年間後期、遅くとも慶長年間ではないかと考えられる。
1巻は清康の変死から広忠、家康(当時は元康)の事績、そして元康が築山殿と結婚して信康が生まれたことまで。2巻は、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れた後、元康が三河国で自立して家康と改名し、三河一向一揆の鎮圧まで。3巻は今川氏の滅亡から家康が居城を浜松城に移すまで。4巻は、信康の妻に信長の娘・徳姫を迎えてから武田信玄が死去するまで。5巻は松平一族と有力家臣の紹介。6巻は長篠の戦いから信康の自害までを扱っている。
内容については以下の部分から、史料性については疑問点も多い。
- 今川義元の桶狭間の戦いは、信長を殺して上洛し、天下に覇を唱えようとしたものとされている。
- 三河一向一揆の勃発が永禄5年(1562年)、信玄の西上作戦開始が元亀2年(1571年)、信玄の死去が元亀3年(1572年)とされている年代の間違い[注 2]。
- 信康切腹が信長の圧力による命令とされている点[注 3]。