真竜院
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真竜院(しんりゅういん、天文19年(1550年)[1] - 正保4年7月10日[1](1647年8月10日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。父は武田信玄で3女[1]。母は油川夫人と武田家関係の系図で伝わる[1]。木曾義昌の正室。名は真理姫(まりひめ)と伝わる[1]。兄に武田義信や武田勝頼がいる。
生涯[編集]
信濃木曾郡の領主である木曾義昌に嫁いだ[1]。義昌との間には天正5年(1577年)に長男の義利が生まれている他、2男2女に恵まれた[1]。
真竜院は天正10年(1582年)に織田信長による武田征伐が始まると、信長に通じて実家から離反した義昌と離婚して木曾谷に帰って黒沢に隠棲したと伝わる。一方で武田家、信長の滅亡後に徳川氏に従った義昌と行動を共にし、木曾氏が下総に移った後の慶長5年(1600年)に息子の義利の代に至って改易されたため、木曾に帰って隠棲したとも言う[1]。
正保4年(1647年)7月10日に98歳の高齢をもって死去[1]。これは信玄の子女の中では最も長寿だった。
法名は真竜院殿仁栄宗真大姉[1]。
脚注[編集]
真竜院が登場する作品[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1