大井信達
大井 信達(おおい のぶさと、? - 天文12年7月9日[1](1543年8月9日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の一族。武田信虎の義父で、武田信玄の外祖父。父は大井信包。子に瑞雲院殿(大井夫人、武田信虎正室で武田信玄の母)[1]。信業(長男)、信常(次男)、武藤信堯(三男)、虎昌(四男)、虎成(五男)、武藤常昭(六男)、娘(今井信良室)、娘(小山田信有室)、娘(今井信元室)ら。仮名は次郎[1]。法号は高雲斎宗芸[1]。受領名は上野介[1]。甲斐西郡大井郷を所領とする国人領主[1]。
生涯[編集]
信達は武田信虎と徹底して敵対し、信虎と油川信恵の家督抗争では後者を支援した[1]。信恵が滅ぶと今川氏親に従属してその支援を背景に信虎と抗争を展開[1]。永正12年(1515年)10月17日には信虎の猛攻を受け、本拠地の大井氏館(現在の南アルプス市)に立て籠もる[1]。今川軍の支援、信虎軍が大井氏館の地理に暗く周囲の深田にはまって大いに反撃されたため富田城の戦いで信達は勝利して小山田大和守、飯富道悦、飯富源四郎、板垣伯耆守ら多くの武田方の武将を討ち取った(『勝山記』『一蓮寺過去帳』)。その後、今川軍と呼応して信達は各地を放火して回った(『王代記』『高白斎記』)。しかし永正14年(1517年)1月から信虎の反攻が始まり、今川氏親は遠江情勢の変化から甲斐への経略を控えるようになり、3月には和睦して今川軍は甲斐を退去。永正15年(1518年)5月には正式に今川と武田が和睦して信達は完全に孤立し、信虎に降って従属した。この際、和睦の条件として信達の娘・大井夫人(瑞雲院殿)が信虎の正室として嫁いでいる[1]。
永正16年(1519年)12月、信虎が居城を川田から甲府に移転した(『勝山記』『高白斎記』)。これに対して信達は反発し、永正17年(1520年)5月に栗原信友、今井信是と手を結んで反乱を起こした(『勝山記』)。信達は今井軍と連合したが、6月10日に行なわれた今諏訪合戦で信虎に撃破される(『高白斎記』)。信達は敗戦後、居館を信虎に包囲されて降伏した[2]。
以後、家督は長男の信業が継いでおり、信達は出家している[1]。享禄4年(1531年)に信業が戦死すると、信業の長男である信為を後見した[1]。
没年は不詳とされていたが、天文12年(1543年)7月までの生存は確認されている[1]。没日は7月9日と分かっているため、天文12年(1543年)7月9日が命日と考えられている[1]。戒名は本習院(双白院)能岳宗芸[1]。
歌道に優れ、公家の冷泉為和が甲斐に下向した際には自分の屋敷で歌会を開催している[3]。