大姫 (源頼朝の娘)

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大姫(おおひめ、治承2年(1178年) - 建久8年7月14日1197年8月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての女性鎌倉幕府を開いた源頼朝の長女で母は北条政子(頼朝の子としては第2子で長女、政子の子としては第1子で長女)。大姫というのは「長女」を意味する通称で、本名は一幡とする説があるが不明。6歳の時に頼朝と対立した源義仲との和睦のため、義仲の嫡男・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴い義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病む。のちの縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったが実現する事無く20歳で早世した。

生涯[編集]

頼朝がまだ流人だった頃に生まれた長女である。源義仲と父の頼朝が対立した際、義仲は頼朝と対立することの不利を悟って自らの嫡男・義高を頼朝に人質として差し出した。義仲はその後、頼朝が派遣した源範頼源義経らによって討たれ、義高も頼朝の命令により、大姫と婚約を結んでいたにも関わらず殺害された。大姫は義高の死にショックを受け、以後は病床につくことが多くなったという。

生母の政子は愛娘のことを心配し、一条能保の子で頼朝にとっては甥に当たる一条高能の下に大姫を嫁がせようと画策するが、大姫はこれを承諾しなかった。父が征夷大将軍に就任して鎌倉幕府を開くと、大姫は将軍の娘として重きに置かれた。父の頼朝は建久6年(1195年)に父に同道して初めて上洛し、その際に朝幕関係をさらに強めようと画策する父の思惑によって大姫を後鳥羽天皇入内させようとした。これには母の政子も積極的だったとされ、丹後局と交渉を行なったりしたが、大姫が既に病気がちであったことや京都政界内部の陰謀などもあってまたも実現しなかった。

建久8年(1197年)7月14日、父や母に先立って鎌倉で20歳の若さで病死。

吾妻鏡』では大姫の一生について当時の鎌倉の人々が貞女の操行であるとして賞賛したと記録している。