忍者
忍者 (にんじゃ)とは、諜報若しくは後方撹乱のために忍術を使う人をいう。
概要[編集]
現代では奇想天外な秘術を用いた戦闘員と誤解されることがあるが、実際は科学的、合理的にまとめられた戦闘集団である。江戸時代以前はどこかの領主へ召し抱えられず、契約によって活動を行った。その範囲は諜報、後方撹乱のほか、暗殺、宣伝、破壊工作であった。「忍び」「忍びの者(忍之者)」といわれ、史料に存在が確認できるのは、南北朝時代以後である。
戦場でスパイ活動、すなわち敵軍に潜行する情報収集活動、変装術を行う。南北朝時代(1336–1392)に登場したとされる。
江戸時代には全国の藩で忍びが召し抱えられていた。松江藩では3人の「伊賀之者」が召し抱えられ1600年の関ヶ原の戦いに参加したという。その後「忍之者」と改称し人員増で40人になっている。 織田信長や徳川家康も忍者を召し抱えたといわれる。藤林左武次保武の忍術書「万川集海」の「忍術問答」では、信長の桶狭間の戦いでは、尾張・三河エリアを拠点とした忍びの集団「饗談」を敵軍に潜り込ませて情報を得たとされている。「饗談」は相手をもてなして情報を聞き出すで間諜とされる。
伊賀と甲賀が有名であるが、それ以外の地域にもいた。
起源[編集]
大陸伝来説[編集]
大陸伝来説では中国の武教七書が起源とされる[1]。中国では兵法書が相次いで編纂されたが代表的古典は七つの兵法書である。『孫子』『呉子』『尉繚子)』『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』の七書である。徳川家康の指示により林羅山らによって武教七書が研究された。
国産説[編集]
中世に「忍び」が登場し日本独自に忍者が生まれた説である。忍者とは「忍びの術」を駆使し、忍びは、乱波(らっぱ)・透波(すっぱ)・草(くさ)・奪口(だっこう)・かまりなどと呼ばれた。間諜(スパイ)との違いは「忍びの術」を会得しているかどうかである。間諜は推古天皇の時代からある。601年、新羅の間諜が對馬に到来した記事がある。
くノ一[編集]
くノ一は女性忍者である。女性忍者は小説にはあるが、前近代にはいなかったと考えられている。
有名な忍者[編集]
外部リンク[編集]
リファレンス[編集]
- ↑ 山田雄司(2016)『忍者の歴史』角川書店