劉禅
劉 禅(りゅう ぜん、207年 - 271年)は、三国時代の蜀の第2代皇帝(在位:223年 - 263年)。幼名は阿斗(あと)。父は劉備。母は側室・甘夫人。劉備の崩御で皇帝に即位し、40年間在位という三国時代の皇帝の中で最も長期に渡り蜀を支配したが、暗愚な人物として知られ、その幼名は暗愚の代名詞にされた。なお、亡国の皇帝のため一般的に後主(ごしゅ、こうしゅ)と称されるが、五胡十六国時代に漢を建国して劉禅の後継者を自称した劉淵から懐帝(かいてい)と諡されている。字は公嗣(こうし)[1]。
生涯[編集]
即位前[編集]
208年、当時父の劉備が曹操の侵攻にあって長坂の戦いで大敗した際、劉禅は母の甘夫人と共に曹操軍の中に取り残されたが、趙雲の活躍で救出された[2]。母親はその後間もなく死去している[3]。後に劉備が孫権の妹の孫夫人と政略結婚し、劉備が益州に攻め入った際に孫権の命令で劉禅を連れて帰国しようとしたが、この際にも趙雲、そして張飛の活躍で助けられている[4]。
219年に父が漢中王になると劉禅は王太子となる[1]。後継者を争う立場にあった養子の劉封は220年に劉備と諸葛亮により粛清され[5]、221年に父が皇帝として即位するに及んで皇太子になったため[1]、後継の立場は確実となる。223年に劉備が崩御したため、跡を継いで即位した[1]。
前半の統治[編集]
即位した時点で17歳の若年で父帝の遺言もあり、国政の全権は丞相の諸葛亮が掌握し[1]、その下で南征や北伐が行なわれた。234年に諸葛亮が死去するが、その後も蒋琬・董允・費禕らの名臣に恵まれていたため、劉禅は彼らに国政を任せている[1]。243年には魏の曹爽・夏侯玄・李勝らにより侵攻を受けるが、費褘と王平により撃退している(興勢の役)。
しかし246年に蒋琬・董允の両者が相次いで死去したため、劉禅の親政が開始される事になった[1]。
滅亡への道[編集]
劉禅は親政を開始するとやった事は大赦の連発と奢侈への傾倒であった[1]。しかも董允の死でそれまで董允の監視のために台頭できなかった宦官の黄皓を信任して重用したため、政治の腐敗を招いた[1]。それでも費禕がまだ存命していたため、蜀は何とかやっていけた。
しかし253年に費禕は魏の降将である郭循に暗殺された。これにより蜀では国政を執れる人物がいなくなり、同時にそれまで費禕に抑えられて北伐を行なえなかった姜維が軍権を掌握して北伐が開始されることを意味していた。姜維の北伐は当初こそ徐質を討ち取り、雍州刺史の王経を破るなど戦果を挙げたが、256年の段谷の戦いで鄧艾に大敗するに及んで以降は敗色一方となり、また連年の北伐は蜀の人民に多大な負担を強いて怨嗟の的にもなった[6]。しかも宮中では劉禅の信任を得た黄皓の専横が激しくなり、劉禅は異母弟の劉永すら退けて謁見を10年余も許さないなどの失政を犯した[7]。さらに黄皓は右大将軍の閻宇と結託して姜維を廃そうと画策し、姜維もそれを察して成都に帰還しなかったため、宮中の腐敗は加速してゆく[5]。
263年、司馬昭の命令を受けた鄧艾と鍾会による蜀侵攻が開始される[5](蜀滅亡)。姜維は劉禅に対して魏の侵略と防衛の強化を上奏したが、黄皓がそれを握りつぶした上に鬼神や巫女の占いを劉禅に信じさせてしまったため[5]、蜀の防衛は不完全になった。その結果、姜維は剣閣に押し込まれて鍾会の攻撃を食い止めるのが精一杯だった。一方、鄧艾は別動で景谷道から蜀の本領へ侵入を果たした[5]。劉禅は諸葛瞻・諸葛尚・張遵・黄崇らに綿竹を防衛させたが鄧艾に破られて成都に遂に迫られる。重臣の光禄大夫である譙周の勧めもあり、鄧艾に降伏して蜀はこうして滅亡[1]。一方で5男劉諶は「先帝(劉備)に顔向けできない」と父帝の決めた降伏を受け入れず殉死した。
滅亡後[編集]
蜀滅亡後、劉禅は洛陽に身柄を移され、安楽公として同地に1万戸の所領を与えられて余生を楽しんだ[1]。魏が西晋に禅譲してから6年後の271年、武帝の時代に死去した。享年65。
人物像[編集]
劉禅に仕えて三国志を執筆した陳寿は劉禅の事を「白糸はどうにでも変わるものであり、ただ染められるままになる」と評した[1]。つまり有能な臣下(諸葛亮ら四相)がいる間は余計な口出しをせず有能な家臣に任せる度量もあり、それほど悪政は行なわれていなかったが[1]、有能な臣下がいなくなって黄皓のような悪宦官や戦争しか頭になかった姜維らが台頭すると、彼らのやる事をそのまま放任してしまった点ではマイナスであり、劉禅は主体性が無い消極的な人物であった。ただ在位中は特筆するような内部粛清はしておらず、諸葛亮を誹謗した者を問答無用で処刑したり、成都に直接の被害が出る前に投降した点[1]、魏・西晋にいた際に自分を助けた郤正に対して「郤正を知るのが遅すぎた」と悔やんだ点[8]など、中国の多くの暗愚といわれる皇帝に較べてまともな一面があったのも事実で、本当にそこまで暗愚というべきなのか疑問点はある。
劉禅の幼名が暗愚と言われる由縁はやはり黄皓の重用と、5男・劉諶の徹底抗戦を聞き入れずに投降した点、それと『漢晋春秋』に伝わる司馬昭とのエピソードに尽きる。
司馬昭が劉禅を招いて宴会を催した際、蜀の音楽を演奏させると蜀の旧臣は全員涙したが、劉禅は平然としていた上に笑っていたので司馬昭が「蜀を思い出しませんか」と尋ねると「ここは楽しくてそんな事はありません」と述べて司馬昭も蜀の旧臣も唖然とした。家臣の郤正がすかさず「もし再び尋ねられたら涙を流して先祖の墓があるゆえ西を向いては心悲しく、一日として思い出さない事は無い」と答えるように薦めた。それに従って劉禅が司馬昭にそう言うと、司馬昭はすかさず「郤正殿の言葉にそっくりですな」と見抜き、劉禅も「まさにその通りです」と述べて宴席を笑いの渦に包ませたという。このため司馬昭は「諸葛亮がこれでは生きていても蜀の運命はどうにもならなかったであろう。姜維では尚更の事だ」と家臣の賈充に述べたという。
『三国志演義』では第34回で誕生する。阿斗の幼名の由来は甘夫人が北斗七星を飲み込む夢を見て懐妊したために名づけられたとされ、趙雲の2度の救出劇(第61回など)などはほぼ史実通りであるが長坂の戦いでは正体不明の紅い光線を放って趙雲の窮地を救い、劉備からは「お前のせいで大切な家臣を失うところだった」と怒鳴りつけられている。演義では暗愚がさらに強調されており、早くから奢侈や酒に溺れたり、宦官の讒訴を受けて北伐中の諸葛亮を成都に召還したり、姜維の北伐でも鄧艾や司馬望の流言を信じて好機の所で召還したりするなどしている。魏への降伏等はほぼ史実通りで、司馬昭とのエピソードも掲載されている。
宗室[編集]
兄弟
- その他、2人の姉妹がいた[9]。
妻
子
従孫
- 劉玄(劉永の孫)