司馬炎

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司馬 炎(しば えん、236年 - 290年)は、西晋の初代皇帝(在位:265年 - 290年)。諡号武帝(ぶてい)。安世(あんせい)[1]

から禅譲を受けて西晋を建国する。さらにを滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。しかし統一後は政治への興味を失い、後の八王の乱の遠因を作って西晋が短命に終わる一因を作った。

生涯[編集]

即位まで[編集]

父は司馬昭で長男。母は王元姫王粛の娘)。伯父は司馬師。祖父は司馬懿である。

司馬氏は司馬懿の代に魏の元老として重用され、政権に参画する実力者にのし上がっていた。そのため嘉平年間(249年 - 254年)に北平亭侯に封じられ、給事中奉車都尉中塁将軍中護軍などを歴任した。260年に魏の最後の皇帝となる元帝が即位すると中撫軍に転任し、新昌郷侯に封じられる[1]

しかし248年に同母弟の司馬攸が生まれ、この司馬攸は聡明で器量に優れていたことから祖父の司馬懿、そして父の司馬昭からも寵愛されて後継者はこの司馬攸に考えられるようになった。祖父や父の愛情だけではなく、司馬攸は司馬師の養子となっていたため、その系譜を継承していたことも一因しているという。このため、264年に司馬昭が晋王に封じられると司馬攸が後継者に指名されそうになるが、重臣の裴秀山濤何曾らの反対を受け、司馬昭は司馬攸の後継を断念して司馬炎を後継者に指名した。265年に司馬昭が急死するとその跡を継いで晋王・相国となり、同年末に元帝に禅譲を迫って西晋を建国し、泰始改元した[1]

統一まで[編集]

即位して武帝となった司馬炎は倹約に努めて国力の充実を図り、司馬一族の多くを諸国の王に封じて兵力を配備する[1]。これは魏の時代に曹丕(文帝)が即位当初に曹植など一族を冷遇して皇室権力を弱体化させたことで司馬氏の簒奪を食い止めることができなかった前例があるため、武帝は逆に一族を優遇したのである。

三国で唯一生き残っていた呉はこの頃、孫皓の暴政により衰退していたが、269年に呉討伐の兵を挙げ、羊祜荊州方面の総司令官に任命し、王濬龍醸将軍に任命して益州長江上流から水軍をもって呉を攻める準備に取りかかった。しかし当時の呉には名将・陸抗がいたため、西晋軍は長江一帯より手出しできないまま対峙が続いた。その間に西方では鮮卑族の反乱が起きてそちらに軍勢を向ける必要に迫られるなどしたため、呉侵攻は遅れた。ただ274年に陸抗が死去したため、呉には西晋の侵攻を止められる名将は不在となり、279年から呉に対して遂に6方面から大軍を侵攻させ、280年に呉の首都建業を落として孫皓を降伏させ、これにより黄巾の乱以来96年ぶりに中国は再統一され、三国時代は終焉を迎えた[1]

統一後において[編集]

武帝は統一後、堕落の色が濃くなった[2]。酒色と女色に溺れて国政を省みなくなった。武帝の堕落として有名なのが「盛り塩」である。呉が滅亡すると、その後宮にいた5000人の女性を自らの物とし、あらかじめいた自分の後宮の女性5000人と合わせて1万人もの女性を収容し、広大な後宮内を羊に引かせた車に乗って車が止まった女性の下で一夜を過ごしたが、女性らは羊を止めるために自室の前に羊の好きな竹の葉を挿し、塩を盛ったという。ただし、武帝が実際に1万人の女性を相手にしたわけではない[1]

武帝の後継者として、次男の司馬衷が皇太子に指名されていたが、この司馬衷は司馬昭すら後継者を取り替えるように忠告するほど暗愚であり、周囲は聡明な同母弟の司馬攸の後継を期待していたが、武帝は司馬攸に圧力をかけて失脚に追い込む。これは274年に武帝が重病に倒れた際、司馬攸を後継にしようと夏侯和賈充に主張する計画があり[3]、これは武帝の回復で未遂に終わったものの、これを恐れて圧力をかけたものと推測される。これに対して司馬駿曹志などは司馬攸を擁護したが、武帝はこれを無視し、司馬攸は283年に憤死を遂げた。

この頃になると西晋各地で天災が相次いで人心が荒廃し、また外戚楊駿が台頭して専横するなど西晋は混迷を極めてゆく。289年頃から武帝は死の床につき、後継者の司馬衷の後見を外戚の楊駿と叔父の汝南王・司馬亮に任せようとしたが、楊駿の策略で司馬亮が参内できないうちに290年4月、武帝は崩御した。享年55[1]。皇太子の司馬衷が跡を継いで恵帝となった。

人物像[編集]

武帝は祖父や伯父、父の敷いたレールを継承しただけの人物で凡庸あるいは暗愚という評価がある。これは武帝の没後に八王の乱と呼ばれる西晋没落の内乱が起きたためである。ただし武帝は曹植の遺児・曹志や諸葛亮の遺児など、かつての敵である子孫を任用したりするなど寛大な処置をとっているのは高く評価されている。かつて父が謀反の罪を着せて殺した王経の孫に関しても任用したりするなど、器量や寛大の大きさはなかなかのものであった。

三国志演義[編集]

三国志演義』では第114回で名前のみが登場する。第119回で史実と同じ容貌が紹介され、魏の元帝に禅譲を迫り、呉を征伐するのが史実と同じように描かれている。西晋によって三国は統一されて武帝は名君として描かれたところで演義は終焉を迎える[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 小出『三国志武将事典』P281
  2. ついに政術を怠り、遊宴に耽る(『晋書』武帝紀)。
  3. 『晋書』賈充伝。

参考文献[編集]