董允
董 允(とう いん、? - 246年)は、中国の三国時代の蜀の政治家。字は休昭(きゅうしょう)[1]。父は董和[1]。孫は董宏。
生涯[編集]
董和の子で、劉備が息子の劉禅を皇太子に立てた際、太子舎人に抜擢された[1]。223年に劉禅が皇帝として即位すると黄門侍郎に昇進し、諸葛亮の北伐が始まると費禕や郭攸之と共に宮中の諸事を担当した[1]。後に費禕は諸葛亮の参軍として北伐に随従するようになったため、董允は侍中と虎賁中郎将を兼任して警護の近衛兵の指揮を任される立場になった[1]。
董允は凡庸な劉禅に落ち度が無いようにするために諫言を繰り返した[1]。劉禅がある時、後宮の美女を増やしたいと駄々をこねたが、董允は古代の天子の后妃の数は12人にすぎず、既に宮女が揃っていることを理由に反対・拒否した[1]。劉禅が宦官の黄皓を寵愛するようになると董允は黄皓に対する監視を強め、その権限を抑えにかかった[1]。このため黄皓は董允の存命中には権力を握れず、悪事を働くこともできなかった[1]。
243年に輔国大将軍に任命され、244年には中守尚書令の地位を安堵されたまま大将軍となっていた費禕の次官となる[1]。246年に死去[1]。
董允の死後、それまで権勢を抑えられていた宦官・黄皓の台頭が始まり、蜀の衰退が徐々に始まることになる。
『三国志演義』では劉備の死後である第85回から登場。劉備が死去して曹丕が司馬懿の進言を容れて5路から蜀に攻め入った際、病気と称して出仕しない諸葛亮に対しての使者として丞相府に赴くが門前払いされている。次に諸葛亮の北伐の時に登場して、史実同様に宮中の諸事を任されている。そして234年の諸葛亮の没後、楊儀と魏延が対立して劉禅が両者の上奏を受けて迷った際、董允は楊儀の上奏を是と答えた。そして両者の対立を回避させるため、仲介の使者として董允が漢中に赴くが、その到着前に魏延が楊儀に殺されて徒労に終わっている。
逸話[編集]
董允は諸葛亮・費禕・蒋琬と並んで蜀の「四相」「四英」に数えられる優れた政治家であったが、費禕と比較されると劣る人物として記録が残っている。
- 董允の父の董和は息子と費禕のどちらが優れているのかと常々思っていた[2]。ある時名士の息子が死去し、その葬儀に費禕と董允が共に行くことになった[2]。董允は父に馬車がほしいと頼み、小さな車を出した[2]。董允は小さな車なので乗り渋ったが、費禕はすぐに乗り込んだ[2]。葬儀場には既に諸葛亮ら高官も来ていたが、高官の馬車が大層立派なのに対し自分達の馬車は貧相だった[2]。そのため董允は到着してもまだ不安な様子だったが、費禕はゆったりと落ち着いていた[2]。董和は戻ってきた馬車の御者からそれを聞いて「わしはお前と文偉のどちらが優れているか測りかねていたが、今ではわしにもよくわかった」と述べた[2]。
- 費禕は人並み外れた理解力を持っており、記録を読む場合、いつも眼をあげてしばらく見つめるだけで、もうその内容に精通していた。その速さは人の数倍であり、また決して忘れることがなかった[3]。いつも朝と夕に政務をはじめ、その間に賓客を応接し、飲食しながら遊び戯れ、博打までして人々のやる楽しみを尽くしながら、仕事も怠らなかった。董允は費禕に代わって尚書令になると費禕の行為を真似しようとしたが、10日足らずで多くの仕事が渋滞してしまった。そこで董允は「人間の才能や力量がこれほどかけ離れているとは、これはわしの及びもつかぬ事だ。1日中政務にかかりきりでいて、まだ暇がないことさえあるのだから」と嘆息して言った[3][4]。