司馬昭
司馬 昭(しば しょう、211年 - 265年8月)は、中国の三国時代の魏の武将・政治家。司馬懿の次男。司馬師の同母弟。西晋の武帝・司馬炎の実父であるため、晋の時代に文帝(ぶんてい)の諡号と太祖(たいそ)の廟号を追贈された[1]。字は子上(しじょう)[1][2]。
生涯[編集]
父は司馬懿で母は張春華[1]。238年に魏の新城郷侯に封じられ、曹芳の時代に転農中郎将に任命される[1]。司馬昭は先帝・曹叡(明帝)の時代に行なわれていた奢侈によって苦しんでいた人民を救うために赴任先の収奪を厳禁としたため、人民の大いなる支持を得た[1]。244年に曹爽・夏侯玄による蜀攻撃、いわゆる興勢の役に夏侯玄の副将となり、征蜀将軍に任命されて司馬昭も参加するが、費禕・王平らに阻まれて戦果無しと見た司馬昭は曹爽に対して早々に撤退を進言するが容れられず、曹爽の無謀な進軍によって魏軍は大被害を被ることになった[1]。
249年1月、父の司馬懿が高平陵の変と称される政変を起こした際、司馬昭は兵を率いて西宮と永寧宮を守備したが、決行する前夜まで司馬昭は司馬懿にこの政変を起こす計画を知らされていなかった[1]。251年に司馬懿が死去するとその権力は司馬師が受け継ぎ、司馬昭はその腹心となる。252年、呉で孫権が崩御すると、その隙を突いて司馬師は呉に侵攻することを決め、司馬昭は都督に昇進して胡遵や諸葛誕らの監軍として参戦したが、東関の役において呉の丁奉らに大敗を喫し、敗戦の責任を取る形で爵位を剝奪された[1]。
255年、寿春で毌丘倹と文欽の反乱が起こる(毌丘倹・文欽の乱)[1]。司馬昭は中護軍として討伐に自ら向かった兄・司馬師の留守を預かり、鎮圧して凱旋する途中に司馬師が病死すると、兄の跡を継いで権力を継承した[1]。この際、司馬昭への権力継承を快く思っていなかった皇帝・曹髦は司馬昭に対して引き続き許昌に駐屯し軍勢は洛陽に引き揚げるように命じたが、司馬昭は皇帝の命令を無視して軍勢を率いて洛陽に帰還し、大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事・加侍中となる[1]。256年には大都督・高都郷になった[1]。
257年に揚州で強大な軍事力を保持していた征東大将軍の諸葛誕が呉の援軍を得た上で司馬昭に対して反乱を起こした(諸葛誕の乱)[1]。しかし諸葛誕は呉の援軍として加わった文欽と対立して自滅し、反乱は平定されて司馬昭の魏における最高権力者としての地位は不動の物となる[1]。260年に皇帝・曹髦が司馬昭の専横を恨んでわずか数百人の兵士を率いて挙兵し、司馬昭のいる大将軍府を襲撃しようとしたが、護軍の賈充とその配下の成済によって曹髦を殺害した。この際、陳泰から賈充を誅殺するように進言されるが司馬昭は拒否し、実行役の成済を処刑した。新皇帝には曹奐(元帝)を擁立した[1]。
263年、鍾会・鄧艾らに軍勢を預けて蜀征伐を行なわせる(蜀滅亡)[1]。既に蜀は末期的な状況にあり、姜維ら一部の抵抗を除いて特に激しい抵抗は無く、劉禅は鄧艾に降伏して蜀は滅亡した。さらに蜀滅亡後、その地で自立しようとした鍾会・姜維の反乱を264年に鎮圧した[1]。蜀征伐の功績により、264年3月に晋王に封じられ、5月には咸熙と改元するなど[1]、既に曹奐を傀儡にして全権を掌握し、残るは禅譲による王朝交代を残すのみとなった。
265年8月、野営先において突然死を遂げた[1]。享年55。死因は中風だったとされる。
死後の9月、後継者の司馬炎から文王と諡号を贈られ、12月には禅譲が行なわれて司馬炎により西晋が開かれることになり、司馬昭は文帝と追尊された[1]。
『三国志演義』では字が子尚(ししょう)と変更されている[1]。初登場は兄の司馬師と共に第94回で、司馬師と共に父を補佐して諸葛亮の北伐で戦う[1]。第109回の253年秋、姜維の北伐で董亭で敗北して鉄籠山で包囲されて絶体絶命の危機に陥るが、司馬昭の天に対する祈りで小さな泉から勢いよく水が湧き出し、九死に一生を得ている[1]。第114回で史実通り曹髦を弑逆すると、賈充らに皇帝に即位するように勧められるが、司馬昭は曹操にならって子の司馬炎の時代に禅譲を果たせばよいとだけ述べて拒否した。第119回で晋王に封じられ、後は禅譲を残すのみとなっていたが突然、中風にかかって口がきけなくなり、後継者に長男の司馬炎を選ぶよう指を差して急死を遂げた[1]。
宗室[編集]
后妃[編集]
子女[編集]
- 武帝・司馬炎
- 遼東悼恵王・司馬定国(享年3)
- 斉献王・司馬攸(伯父・司馬師の猶子になる)
- 城陽哀王・司馬兆(享年10)
- 広漢殤王・司馬広徳(享年2)
- 楽安平王・司馬鑒
- 燕王・司馬機
- 司馬永祚(夭折したため伝がない)
- 楽平王・司馬延祚
- 京兆長公主(平原侯であった甄悳の夫人の従姉(司馬師の娘)が亡くなり、その後妻になる)