諸葛亮の南征
諸葛亮の南征(しょかつりょうのなんせい)とは、中国の三国時代の225年に蜀の諸葛亮により行なわれた益州南部の反乱平定戦。
経歴[編集]
背景[編集]
223年4月、蜀を建国した劉備が崩御し、まだ若い皇太子の劉禅が即位した。すると益州南部4郡、現在の雲南省から貴州省西北部にかけての一帯で反乱が起こった。この地域は元々独立性の強い異民族、いわゆる「西南夷」が数多く住む地域であった。その内、益州郡(建寧郡)の豪族の雍闓が呉の孫権と通じて反乱を起こし、同郡太守の張裔を追放して郡を占領した。また越嶲郡では蛮族の王である高定が蜀に背き、牂柯郡でも太守の朱褒が自ら郡を擁して反乱に加わった。
これに対して蜀は反乱鎮圧の軍勢を直ちに送れなかった。222年の夷陵の戦いで劉備が陸遜に大敗し、馬良や王甫ら多くの将兵を失って蜀軍の受けた被害が甚大だったためである。このため劉備没後、蜀の大権を掌握した諸葛亮は反乱鎮圧より内政や外交を優先し、まずは民力休養と農耕増産、そして反乱軍を支援する孫権との外交改善を行ない、諸葛亮は鄧芝を孫権の下に派遣した。鄧芝は外交官としてはこれが初めての大任であったが、心を尽くしての説得に孫権は蜀との同盟を承諾して魏との関係を断った。これが224年の事である。
そして225年、諸葛亮は反乱鎮圧のために南征を開始した。
南征について[編集]
実は反乱軍にも予想外の出来事があった。益州南部4郡の内、永昌郡の郡吏である呂凱・王伉らが反乱に与せずに抵抗し、その活躍で反乱軍の勢力拡大が阻まれていたのである。
諸葛亮は南征に当たり、腹心の馬謖に意見を求めた。馬謖は「南中の地は遠く、それに要害をたのんでいる。それで西南夷はなかなか服従しようとはしないのだ。今これを撃ち破ったとしても、明日になればまた反旗を翻すであろう。北伐を確実なものにするためには南征の実をあげなくてはならない。そのためには仁者の気持ちを忘れてはならない。用兵の道は心を攻める事を上策とし、城を攻める事を下策とする。心を屈服させる戦いを上策とし、武器による戦いを下策とする[1]」と答えた。既に南征が始まる前に反乱軍は前述の通りの予想外の出来事などから内部分裂も始まっており、反乱軍最大の首謀者である雍闓は高定の部下によって殺されていた。そのため諸葛亮の南征が始まると越嶲郡はたちまち蜀に帰順し、益州郡に侵攻した李恢らは昆明で反乱軍に包囲されて苦戦するが、計略をもって包囲を突破して敵を破った。
とはいえこれだけ大規模な反乱であるから時間がかなりかかるはずである。しかも当時は現代と違って交通の便も悪く地形の険しささえあったはずだが、陳寿の記した『三国志』「諸葛亮伝」によると「(建興)三年春、亮、衆を率いて南征し、其の秋、悉く平らぐ」とわずか12文字の記述で済まされている。つまり春に出陣して秋に平定した、その間に何があったかの記述は全く無いのである。では、戦いの内容は何に記録されているかは裴松之の註である『漢晋春秋』である。これには「七縱七禽」が載っている。
雍闓の死後、反乱軍最大の実力者となったのは孟獲であった。この孟獲は人格者で漢人・異民族を問わずに人望が厚かった。『漢晋春秋』によると「諸葛亮は南中に到達するまで行く先々で戦勝を収めた。孟獲が蛮人にも漢人にも心服されていると聞き、懸賞金をかけて生け捕りにして連れてこさせた。陣営の中を観察させ、どうかと訊いた。孟獲は「以前は中の動きが分からなかったために敗北した。今陣営を見た以上、もう間違っても敗れる事は無い」と言った。諸葛亮は笑って釈放し、もう一度戦わせた。七度釈放し七度捕らえたが、諸葛亮はなおも孟獲を放してやろうとした。孟獲は留まって去ろうとはせず、「公は天の御威光をお持ちです、わしら南人は二度と背かないでしょう」と言った」とある。こうして益州南部の反乱は完全に鎮圧され、同地域は蜀の支配下に入った。
戦後処理[編集]
益州南部平定後、諸葛亮はそれらの地域の統治に孟獲ら現地人の頭領をそのまま任用した。これに対して諸葛亮に諫言する者があったが、諸葛亮は「もし余所者を留めれば、守備の兵隊を駐留させねばならない。兵隊を駐留させるとなるとその食糧を得るところが無い。第一の難問である。その上、蛮族はこのたび敗北して父や兄を失ったばかりだ。余所者を留めて兵隊を置かなかったならば、必ず禍の種となるであろう。第2の難問である。また蛮族は役人を追い出したり殺害したりする罪を重ねてきており、自ら罪が重い事を気にしている。余所者を留めていても結局は信じないであろう。第3の難問である。今わしは兵隊の駐留もせず、兵糧の輸送もしないで、規律がだいたい保たれるようにし、蛮族と漢人がおおむね落ち着けるようにしたいと望むからこそこうするのである」と答えたという。
その後、孟獲は蜀から官位を与えられ、御史中丞まで昇進した[2]。
なお、南征の結果を「諸葛亮伝」では「(南征のあと)軍需物資が出るようになり、それで国は豊かになった。そこで軍隊を整備し、演習を行なって、次の軍事行動に備えた」と簡潔に伝えている。
つまりこの南征は夷陵の戦いで傷ついた蜀軍のリハビリ的な要素があった。また諸葛亮が軍隊を率いて総司令官として指揮をとったのはこれが最初であり、この勝利で得た多くが次の軍事行動、すなわち北伐につながってゆくのである。
ただ、余りに都合が良すぎるし険阻な土地を短期間で平定している事から、諸葛亮と孟獲の間に何か裏取引があったのではないかとも見られている。
『三国志演義』でも南征の項はあり、孟獲は南蛮王の地位についている。最初は魏の文帝の誘いに乗って挙兵するが諸葛亮に敗れる。次に雍闓らと通じて反乱を起こすが雍闓らは諸葛亮の反間の計に引っかかって自滅。そして孟獲らも諸葛亮の南蛮征伐を受ける。孟優や祝融夫人など架空の人物を加えて史実通り七縱七禽が展開され、7度目になると遂に孟獲は諸葛亮に心服し、帰国する諸葛亮との別れを惜しむ設定となっている。