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(しょく、221年 - 263年)とは、中国三国時代のひとつを成した王朝である。三国志の英雄の一人である劉備が建国したが、その没後は勢力が衰え、最終的にはに滅ぼされた。蜀の皇族の劉氏は後漢の皇族である劉氏の流れを自称したため、蜀漢(しょくかん)とも言われる。首都成都

概要[編集]

建国と劉備の時代[編集]

蜀の建国者である劉備は、後漢末期の群雄の一人ではあるが、確固たる地盤を持ちえずに諸国を流浪して傭兵のような生活を送っていた。しかし荊州に滞在していた際に諸葛亮を得てから飛躍が始まる。同時期に華北を制圧した曹操が大軍を率いて南下するが、揚州孫権と連合した劉備により赤壁の戦いで撃退され、これにより荊州が無主状態になると劉備はすかさず荊州の大半を制圧する。さらに劉備は214年益州を攻めて劉璋を降し、この地を奪取して益州・荊州を支配する大勢力にのし上がった。

しかし、揚州の孫権と荊州領有問題をめぐって争うようになる。217年に親劉備派の孫権の重臣・魯粛が死去すると孫権との同盟は有名無実化し、孫権は曹操と同盟を結んだ。これにより劉備は曹操・孫権の2大勢力を敵に回すことになり危機に陥る。219年には曹操を破って漢中を手に入れて中原への足掛かりとするが、同年に荊州を守っていた蜀の名将・関羽が曹操領の荊州北部を攻めて一時は曹仁を追い詰めたが、曹操に呼応した孫権軍の呂蒙により荊州を奪われ、関羽とその軍団は孫権により滅ぼされた。これにより劉備は荊州と関羽、その配下の諸将まで失う痛手を被った。

さらに220年には法正黄忠ら劉備を支えていた重臣が病死。221年には関羽と共に劉備を古くから支えていた張飛が部下の裏切りにより暗殺された。このような中で劉備は221年、前年に曹操が死去してその息子の曹丕が後漢を滅ぼして魏を建国していたのに対抗し、後漢の復興をスローガンにして蜀(蜀漢)を建国し、皇帝として即位した。即位後、劉備は蜀の軍勢を興して荊州の地を取り戻すために孫権を攻める。一時的には優勢であったが、孫権配下の名将・陸遜の反撃を受けて夷陵の戦いで大敗し、馮習張南傅彤程畿馬良沙摩柯王甫らが戦死し、黄権龐林らは魏に投降し、杜路劉寧らは孫権に投降するという人材的には壊滅的となる大打撃を被った。劉備はこの敗戦後、孫権と和睦したが、敗戦のショックにより重病に倒れて、223年に重臣の諸葛亮に後事を託して崩御した。

諸葛亮の補佐[編集]

関羽とその配下の死、重臣の相次ぐ死などで、劉備の没後に生き残っていた重臣は諸葛亮や趙雲などごく一部となり、また劉備の後継者である劉禅が即位当初は17歳の若年で能力的にも疑問を持たれていたこともあり、諸葛亮が宰相として補佐に当たった。諸葛亮は劉備の死の前後から反乱が起こっていた現在の雲南省、蜀の南部の反乱を鎮圧すると、孫権のと同盟を結んで魏に当たるという基本方針を示し、出師の表を奏上して北伐を開始する。この北伐は当初こそ成功しつつあったが、魏の名将・張郃の反撃により失敗。作戦を立てた配下の馬謖を泣いて粛清した。
以後、諸葛亮は5度にわたる北伐を繰り返し、張郃を231年に討ち取るなど戦果も挙げているが、司馬懿郭淮などの善戦もあって北伐は成功せず、その上、この間にも趙雲など重臣の死去が相次いで蜀は人材が枯渇しつつあり、亮の作戦に不平を述べる魏延を使い続けるといった目の上のたんこぶを抱えた。

結局、諸葛亮は234年に5回目の北伐(五丈原の戦い)の最中に陣没し、蜀軍は撤退した。

凋落と滅亡[編集]

諸葛亮の死後は楊儀が蜀軍を纏め撤退に貢献した一方、撤退に不満な魏延は粛清された。国政は諸葛亮と共に四相と呼ばれた優秀な政治家である蒋琬費禕董允らが劉禅の補佐に当たりながら運営した。この過程で楊儀は重職に就けず、特に蔣琬に越されたことを恨んたところ庶人に落とされ失脚した。
前述の3人の体制はうまく機能し、244年に魏の曹爽夏侯玄・郭淮らが蜀に侵攻してくるも撃退している。しかし246年に蒋琬・董允が相次いで病死してしまう。また、劉禅が成長して親政を開始したため、蜀の政治は乱れつつあった。
このように蜀が退潮の傾向にありながらも魏や呉から侵攻されなかったのは、魏では239年曹叡の死去による司馬懿と曹爽の政争が、呉では二宮の変と称される皇位継承争いが発生し、共に内政課題を抱えた幸運によるものであった。

253年、最後の四相の一人である費禕が魏の降将・郭循によって暗殺されると、死後に蜀の国政を一手に担える優秀な人材は現れず、一方で軍権は姜維が掌握した。その姜維はこれまで費禕が国力差を考慮して決して行おうとしなかった北伐を開始した。以後、北伐は連年のように繰り返されるが、魏の名将・鄧艾により姜維は常に食い止められ、大きな被害を出したりもしていたずらに蜀の軍事力を消耗していった。また費禕の死後は劉禅の完全な親政状態となり、蜀は一気に凋落の道を歩みだした。劉禅は黄皓という宦官を寵愛し、この黄皓の専横や佞臣の増長により蜀は腐敗、堕落してしまった。

このような蜀の衰退を見た当時の魏の政権を掌握していた司馬懿の次男・司馬昭は鄧艾と鍾会に命じて蜀に大軍を侵攻させた。姜維は懸命に抵抗するが、肝心の成都に発した援軍要請が黄皓によって握りつぶされてしまい、援軍が姜維の下に送られることはなかった。魏は鍾会に抑えの兵を残すと、鄧艾率いる別働隊が一気に綿竹まで侵攻。黄崇、諸葛亮の息子の諸葛瞻、孫の諸葛尚らを討ち取った。この敗戦を成都で知る劉禅は最早これまでと観念して魏軍に投降し、これにより蜀は滅亡した。

滅亡後[編集]

劉禅は魏の首都・洛陽に連行され、手厚く庇護を受け、271年に天寿を全うした。

一方、姜維は降伏して鍾会傘下に入ったが、鍾会に反乱を唆して失敗し殺害された。

蜀の歴代皇帝[編集]

  1. 昭烈帝(在位:221年 - 223年)
  2. 後主(在位:223年 - 263年)
  • 劉備は219年、漢中を平定してから漢中王と称した。
  • 劉備は皇帝として全うしたため昭烈帝という諡号があるが、劉禅は魏により退位を余儀なくされたため、諡号は無い。後年に前趙劉淵から懐帝という諡号を与えられている。また、2人の皇帝しかいないため、劉備を先主、劉禅を後主と呼ぶ場合もある。

蜀の元号[編集]