劉淵

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劉 淵(りゅう えん、? - 310年)は、五胡十六国時代の初代皇帝(在位:308年 - 310年)。元海(げんかい)[1]西晋から自立して事実上、五胡十六国時代を切り開いた人物である。

生涯[編集]

劉淵の生年は嘉平年間、すなわち249年から254年の生まれと言われる[2]。父は劉豹といい、魏に仕えた人物である[1]

劉淵は匈奴南単于の家に生まれた匈奴貴族の子弟で、幼児から優れた才能を持ち儒学を学んで武芸にも秀でた[1]三国時代の末期に人質として洛陽に送られる[1]。魏が滅んで西晋が成立し、270年代後半に父が死去すると劉淵はその跡を継いで左部帥、つまり匈奴五部全体の責任者に任命された[1][2]。包容力ある人柄で匈奴部族からの信頼を集めた[1]武帝太康年間、すなわち280年から290年の間に部帥を都尉に改めると左部都尉となり、さらに北部都尉となり、最終的には五部大都督となった[1][2]

西晋で八王の乱が起こると武帝の遺児である成都王・司馬穎の配下となってに留められ、行寧朔将軍・輔国将軍・冠軍将軍などに任命された[2]。しかし八王の乱が激しさを増して混乱が助長すると劉一族は西晋からの自立を画策し、従祖父の劉宣[3]らが304年に劉淵を大単于に推戴して事実上自立した[1][2]。ただしこの時はまだ司馬穎の強い影響下にあり、司馬穎は劉淵に鄴から離れることを決して許さなかった[2]。劉淵は鄴から離れるため、鳥丸鮮卑の軍事力を利用していた司馬騰王浚らに対抗するために匈奴を用いることが有効だと説いて司馬穎を説得し、304年8月に山西に戻ってかつて南単于の本拠地であった離石(現在の山西省離石市)で大単于を称した[4]。司馬穎が王浚に敗れて洛陽に逃れると司馬穎の影響力から離れることになり、劉淵の下に多くの民衆が集結。それを背景にして10月には離石の左国城で漢王を称し、元熙元号を建てて本格的な自立を果たした[4]。国号を漢としたのは劉淵の言が伝わるところによると、漢は長く天下を支配してその恩徳は人心に結びついているから劉備はかつて益州一国でも天下に張り合った。我々匈奴は漢皇帝の甥であり、兄弟ともなったから、兄が亡んだら弟が継ぐのは当然であり、漢と称して劉禅を追尊し、人望を懐くべきである」と言うことらしい[4]。つまり匈奴は前漢時代に皇室と通婚しており、兄弟の関係になったこともある根拠から国号を漢としたのである[4]。この際、劉邦をはじめとした漢皇帝の神主を祀り、自らは劉禅の跡継ぎとして彼を孝懐皇帝と追尊し、漢の後継者である事を標榜したのである[4]

西晋で八王の乱終結に伴い司馬穎が殺害されると西晋攻撃を開始し、司馬騰を破って河東地域を支配下に置き、鄴に迫った[4]。劉淵の下には石勒漢民族の名族の王弥劉霊などの優秀な人材や鮮卑の有力者などが次々と参画して漢は内外に発展を遂げた[4]

308年10月には異民族で皇帝になったものはないという当時の通念を破って皇帝に即位した[1][4]。この際に大司馬大司空御史大夫太尉・相などの中国風の官制を取り入れて政権内部を整備する[1][4]309年1月、平陽に遷都した[4]

劉淵は西晋を滅ぼすため洛陽に攻め入るが、西晋の東海王・司馬越により阻まれて果たせないまま310年6月崩御した[1][5]。跡を息子の劉和が継いだ[5]

宗室[編集]

后妃[編集]

  • 武元皇后呼延氏(呼延翼の娘)
  • 光献皇后張氏(張寔の叔伯母)
  • 単皇后(単徽の娘)

子女[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P342
  2. a b c d e f 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P57
  3. この際、劉宣は「晋は無道をなし、奴隷として我らを御す」と述べたという。
  4. a b c d e f g h i j 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P58
  5. a b 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P59

参考文献[編集]