夏侯玄

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夏侯 玄(かこう げん、209年[1] - 254年)は、中国三国時代政治家太初(たいしょ)[1]。父は夏侯尚。生母は徳陽郷主(曹真の妹)。妻は李恵姑。同母妹は夏侯徽司馬師の前妻)。従兄弟は曹爽。娘は和嶠(和洽の孫)の妻。

生涯[編集]

夏侯尚の子で、225年に父が死去したため跡を継ぎ、20歳の時に散騎黄門侍郎となる[1]。しかし明帝から疎まれて羽林監に左遷された[1]239年に明帝が崩御し、従兄弟の曹爽が政権を握ると征西将軍・仮節都督雍・涼州諸軍事に昇進する[1]244年には曹爽らと共にに攻め入るが王平らの反撃を受けて敗退した(興勢の役)。

249年高平陵の変の際には曹爽に連座せず召還されて大鴻臚となり、太常に転任した[1]。しかし曹爽の従兄弟だったため不遇となる。

254年に中書令李豊張緝らが専権が目立つ大将軍司馬師を殺して夏侯玄を新しい大将軍にしようと画策した[1]。しかしこの計画は未然に発覚して夏侯玄も李豊らも捕らえられて三族皆殺しになった[1]。享年46。

なお、夏侯玄は薄々自分が非業の最期を遂げる事を予期していたという。251年司馬懿が死去した際、友人の許允がやって来て「これで枕を高くして眠れますね」と語ると「とんでもない。君の眼は節穴ではないのか。司馬懿はあれでもわしを友人(夏侯尚)の息子として遇してくれた。司馬師と司馬昭の2人はとてもとても、わしを許しはすまい」と答えたという[2]

三国志演義』ではこの司馬師暗殺計画に夏侯玄も加わっており、処刑される直前まで司馬師を激しく罵った。255年に司馬師が死の床につくと李豊らと共に亡霊として司馬師を大いに苦しめている。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 小出『三国志武将事典』P199
  2. 守屋『中国皇帝列伝・創業編』P174

参考文献[編集]