姜維

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姜 維(きょう い、202年 - 264年)は、中国三国時代、次いでに仕えた武将伯約(はくやく)[1]。父は姜冏

諸葛亮の死後、蜀の軍部の中心的存在として北伐を遂行した。しかし魏の鄧艾らに阻まれ、連年の軍事行動で国家を疲弊させ、蜀滅亡の一因を築き上げた。

生涯[編集]

魏の時代[編集]

涼州天水郡冀県(現在の甘粛省甘谷)の出身[1]。姜維の幼少期の記録は謎が多い。父親は天水郡功曹であったが姜維の幼少期に羌族の反乱に遭遇して身をもって武将を守って戦死した。『姜維伝』にはそのため、「幼くして父を失い、母と暮らした。そして父の戦死により姜維には中郎の官を贈り、本郡の軍事に関与させた」とある。しかし『傅子』に妙な記録がある。それによると「姜維は功名を樹立する事を好む人物で、密かに決死の士を養い、庶民の生業に携わらなかった」とある。姜維は幼少期に父を失っている。しかも中郎に取り立てられたとはいえ、母一人子一人で楽な生活をできたとは思えないのに、なぜ自前の兵士を養うことができたのか、『傅子』にも『姜維伝』にもそれに関しては詳しく書いていない。

他にも疑問点がある。『姜維伝』によると「姜維は鄭玄の学を好んだ」とある。鄭玄とは後漢末期の儒学者で孔融に深く尊敬された人物で漢代の経学を集大成して「鄭学」を築いた人物である。つまり相当な学者なのだが、鄭玄は200年に死去しており、202年生まれの姜維と会ったはずはない。鄭玄の師事を受けた学者の誰かから姜維が師事でも受けたのかと考えられるのだが、鄭玄は北海郡高光(現在の山東省高密)の出身で、晩年は故郷に戻っており甘粛省出身の姜維とつながりがあったとは考えにくい。

228年、蜀の諸葛亮第1次北伐を開始すると、天水郡は蜀に降伏した[2]。この時に姜維は蜀に降伏して諸葛亮に従った[2]

蜀の軍事の柱石[編集]

234年に諸葛亮が陣没すると、蜀の軍事面を担ったのは姜維であった[2]。しかし費禕の存命中は積極的な出兵は許されなかった。費禕は国力増強による内政重視派で姜維に対して「我々は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。その丞相ですら、中原の地を平定しえなかったのだ。まして我らに至っては問題にもならない。まずは国家を保ち、民を治め、謹んで社稷を守るにこしたことはない。功業樹立の如きは能力のある者の出現を待ってしよう。僥倖を頼んで一戦で勝敗を決しようなどとは考えまいぞ。もし、思い通りいかなかった場合、後悔しても間に合わないのだ」と述べて諌めたという[3]

その費禕は253年1月の宴席において魏の降将・郭循により暗殺された[3]。その直後から258年にかけて姜維は蜀軍を率いて連年北伐を繰り返した[3]。しかし魏の鄧艾に阻まれ、成果を挙げる事はほとんどなかった。

費禕の死の前に蒋琬董允らも死去しており、蜀には国政を担う政治家は皆無になった。しかも姜維が成都を留守にしている間に劉禅宦官黄皓を寵愛し、黄門令中常侍として国政を壟断し始めた[3]。その黄皓にとって邪魔なのが姜維であり、黄皓は閻宇と結託して姜維を廃し、閻宇を後釜に据えようとした[3]。このため姜維は成都には帰らず、国政は大いに乱れ蜀は著しく衰退した[3]

降伏と死[編集]

263年、魏の司馬昭鍾会鄧艾らに大軍を預けて蜀を攻めさせた[3]。姜維は徹底抗戦したが、鄧艾により成都にいる劉禅が攻撃されて劉禅は降伏し、蜀は滅んだ[3]蜀滅亡)。なおも姜維は抗戦の姿勢を崩さなかったが、劉禅より降伏命令を受けて鍾会に降伏した[3]

晋紀』に降伏の際の鍾会と姜維のやり取りが記録されている。

  • 鍾会は姜維が来た時、「どうして(降伏に)来るのが遅かったのだ?」と尋ねた。姜維はきりっとした表情になり涙を流しながら「今日ここでお会いしたのも、早すぎると思っています」と答えた。そのため、鍾会は姜維を非常に立派だと思ったという。

鍾会は降伏した姜維を手厚くもてなし、仮の処置として姜維の印璽などを全て返還してやった[4]。鍾会は姜維と外出する時は同じ車に乗り、座にある時は同じ敷物に座った[4]

鍾会は姜維と結託して成都で益州牧を自称して司馬昭に対し叛旗を翻した[4]。姜維は鍾会軍5万を率いる事になったが、鍾会軍の中から反乱が起こり鍾会・姜維は共に殺された[4]。享年63[4]

人物像[編集]

姜維は同時代の人々から高い評価を受けている。鍾会は部下の杜預に対し「伯約を中原の名士に比較すると、諸葛誕夏候玄でも彼以上ではあるまいな」と語ったという[4]

姜維伝には蜀の重臣である郤正の評価を載せている。

  • 姜伯約は上将の重責を占め、群臣の上に位置していたが粗末な家に住み、余分な財産を持たず、別棟に妾を置く不潔さも無く、奥の間で音楽を奏でさせる楽しみも持たず、宛がわれた衣服を纏い、備え付けの車と馬を利用し、飲食を節約して贅沢もせず倹約もせず、お上より支給された俸禄の類を右から左へ使い果たした。彼がそうした理由を推察すると、それによって貪欲な者や不潔な者を激励しようとしたり、自己の欲望を抑制し、断ち切ろうとしたのではない。ただそれだけで充分であり、多くを求める必要はないと考えたからであった。およそ人の議論というものは常に成功者を称えて失敗をけなし、身分の高い者をさらに持ち上げ、低い者をさらに抑えつけるものであって、誰も彼も姜維が身を寄せる場所も無く、その身は殺され一族が根絶やしにされたことを取り上げ、それを理由に非難を浴せ、もう一度検討し直そうとしないが、それは『春秋』が示す価値判断の建前とは違ったものである。姜維のように学問を楽しんで倦むことなく、清潔で質素、自己を抑制した人物は当然その時代の模範なのである。

司馬昭は劉禅が降伏して洛陽に連行された際、宴席でもてなしたがその際に蜀の音楽が演奏されて蜀の旧臣が落涙していたときにも劉禅は笑っていた。それを見て賈充に「これでは諸葛亮が生きていても国を全うさせる事はできなかったであろう。ましてや姜維などでは尚更のことだ」と語った。

小説『三国志演義』では天水郡太守である馬遵の配下として登場。諸葛亮の策略を見破って趙雲や諸葛亮を敗走させた。諸葛亮に投降した後はその腹心として活躍し、曹真に元魏の将として偽手紙を送ったり、司馬懿の軍を破ったりしている。諸葛亮の死後は蜀の軍事の柱石となり、一時は司馬昭を追い詰めたりもした。しかし鄧艾が出て来ると負け続け、また黄皓の策略で成都に呼び戻されたりして北伐は失敗。ただし演義では連年の姜維の出兵が衰退の一因になったことを表わしてはいない。

脚注[編集]

  1. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P219
  2. a b c 伴野朗『英傑たちの三国志』、P221
  3. a b c d e f g h i 伴野朗『英傑たちの三国志』、P222
  4. a b c d e f 伴野朗『英傑たちの三国志』、P223

参考文献[編集]