趙雲

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趙 雲(ちょう うん、? - 229年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての将軍。子龍(しりゅう)[1]。子は趙統趙広劉備の股肱の家臣であるが、公孫瓚に仕えていた時期もある。

生涯[編集]

公孫瓚の時代[編集]

冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の出身[1]。身長八尺の美丈夫で、姿や顔つきが際立って立派だった[1]。最初は幽州の群雄である公孫瓚に仕えていたが、この時期に客将格だった劉備の存在を知り、その股肱の家臣となった[1]

劉備の時代[編集]

劉備が劉表の下に身を寄せていた際、曹操軍と博望(現在の河南省南陽の東北)で戦ったが、この際に趙雲は曹操軍の武将・夏侯蘭を生け捕りにした[2]。趙雲は夏侯蘭と同郷で幼馴染だったため、また夏侯蘭が法に詳しかったためその才能を惜しみ、劉備に推薦して軍正(軍規・軍功などを判断する官職)に取り立ててもらったが、趙雲は決して自分から夏侯蘭に近づこうとはしなかった[2]

208年曹操が大軍を率いて南下し、同時期に劉表が死去したため劉備は逃走することになった。この時、劉備の妻子である甘夫人劉禅(当時は阿斗)がはぐれてしまい、趙雲は二人を捜し出して曹操の大軍の中を単騎で突破し、無事に劉備の下に送り届けた[2]。これで劉備から絶対の信任を得ることになるが、この際に趙雲の姿が見えないため趙雲が敵に寝返ったのではないかと言う者がいたが、劉備は「子龍はわしを見捨てて逃げたりしない」と言い切り、間もなく趙雲は戻ってきたので劉備は喜んだという[2]

劉備が桂陽郡太守趙範を降した際、趙範は趙雲の立ち居振る舞いに感心して美人と評判の寡婦の兄嫁・樊氏を趙雲の嫁にしようとしたが、趙雲は「同姓である故、貴方の兄さんなら、私の兄と同じことになります」と言って固辞した[2]。この時に別の者が樊氏を勧めたが「趙範は切羽詰って降伏したに過ぎないから、心底はまだ測りかねる。天下に女は大勢いるのだから」と答えた[2]。程無く趙範は逃走したが、趙雲は樊氏に何の未練も持たなかった[2]

劉備の妻である甘夫人が死去し、孫権の妹の孫夫人と再婚した際、若い彼女は傲慢で大勢の孫権配下の官兵を率いてしたい放題をして法を守らなかった[2][3]。蜀に向かう前、劉備は奥向きの取り締まりを趙雲に任せ、厳重にするように命じた[3]。劉備の不在をついて孫権は孫夫人と劉禅を密かに連れ出して帰国させようとした[3]。孫夫人らが船出してからその事実を知った趙雲は急ぎ後を追い、孫夫人から劉禅を奪い返した[3]

214年劉備の入蜀では諸葛亮と共に参戦して江陽(現在の四川省濾州)を攻めて降し、さらに成都に迫った[3]。蜀平定がなると、成都の中の建物と城外の園囿、桑田を諸将に分け与えようという意見が出て、多くの者がそれに賛成したが、趙雲は反対して「前漢驃騎将軍である霍去病匈奴がまだ滅亡していないという理由で屋敷を造ろうとしなかった。今国賊は匈奴程度では済まされず、まだ平安を求めるべきではない。天下がすっかり平定されるのを待って、それぞれが郷里に帰り、故郷で農業をするのが一番適切である。益州の民衆は戦禍にあったばかりであるから、田畑や住宅を全て返還してやるべきで、住民を落ち着かせ、仕事に復帰させてそのあとで、賦役や徴税を行なったならば、彼らの歓心が得られるだろう」と述べた[3]。劉備は趙雲の意見を取り入れた[3]

219年、曹操軍と漢中をめぐる戦い(定軍山の戦い)では、黄忠と協力して曹操軍が北山の麓に大量の兵糧を輸送していた拠点を襲撃した[4]。ところが黄忠が約束の時間になっても戻ってこなかったので、趙雲は数十騎を連れて偵察に出た[4]。そこで曹操の大軍と鉢合わせたが、趙雲は少しも騒がず戦いつつ撤退し、曹操軍が勢いを盛り返すと趙雲は突撃を繰り返して相手の機先を制した[4]。ところが陣営に帰ると部下の一人が帰還しなかったので、趙雲は再び敵中に取って返し、負傷した部下を収容して連れ帰った[4]。曹操軍が大挙して趙雲の陣営に攻めてくると、趙雲は門を大きく開かせて旗を伏せ、太鼓を叩くのを止めさせた[4]。曹操軍は陣営内に伏兵があると見て撤退を始めたが、趙雲はその時に太鼓を雷のように打ち鳴らさせ弩の雨を降らせ、曹操の大軍を翻弄して死傷者続出の有様とさせた[4]。さらに黄忠も戻ってきた[4]。翌日、趙雲の陣営を視察した劉備は趙雲の豪胆さに感嘆して「子龍、一身に全て胆なり」と感嘆して漏らしたという[4]

221年関羽の復仇に燃える劉備が東征を行なおうとすると、趙雲は懸命に反対したが劉備は耳を貸さずに出撃した[4]夷陵の戦い)。

劉禅の時代[編集]

223年に劉備が崩御すると劉禅に仕える。228年に諸葛亮が第1次北伐を開始すると、趙雲は老齢を押して従軍した[5]。趙雲は鄧芝と共に別動隊を率いて箕谷から関中をうかがい、長安をつく構えを見せた[5]。このため曹叡軍は長安の防備で大慌てになり、その隙に諸葛亮の本隊が祁山を奪い、さらに魏から3つの郡を無血で奪う陽動作戦を見せた[5]。しかし街亭の戦いで敗れたため蜀全軍は撤退することになり、この際の撤退で蜀軍は大いに乱れたが、趙雲の軍のみは整然としていたという[5]

229年に死去[5]。享年は不明だが70歳前後と当時としては高齢だったと思われる[5]

小説『三国志演義』では関羽や張飛と並ぶ豪傑として描かれ、正史同様に曹操軍の中央突破などの活躍が描かれて曹操から自分の家臣にしたいと望まれている。活躍はほぼ史実と同様だが、第1次北伐の際には老齢ながら夏侯楙をあしらい大活躍し姜維と一騎打ちを演じている。冷静沈着な名将として描かれている。

脚注[編集]

  1. a b c d 伴野朗『英傑たちの三国志』、P204
  2. a b c d e f g h 伴野朗『英傑たちの三国志』、P205
  3. a b c d e f g 伴野朗『英傑たちの三国志』、P206
  4. a b c d e f g h i 伴野朗『英傑たちの三国志』、P207
  5. a b c d e f 伴野朗『英傑たちの三国志』、P208

趙雲が登場する作品[編集]

アニメ
人形劇
テレビドラマ
映画
ゲーム

参考文献[編集]