曹爽

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曹 爽(そう そう、? - 249年)は、中国三国時代武将政治家昭伯(しょうはく)[1][2]

魏の重鎮である曹真の長男[1]。弟に曹義曹訓曹則曹彦曹皚少帝を擁して魏の大権を握り栄華を極めたが、司馬懿の逆クーデターに遭い失脚し、三族皆殺しにされた。

生涯[編集]

曹真の子で、父が231年に死去すると跡を継ぐ。若い頃から魏皇室の一族として謹厳かつ重厚で、皇太子だった曹叡から大いに信任され、曹叡が明帝として即位すると散騎侍郎・城門校尉・武衛将軍を歴任する[1]。そして明帝の晩年に大将軍となった[2][1]239年1月に明帝が崩御する直前、司馬懿と共に養子の曹芳を遺嘱された[2][1]

曹爽は最初は司馬懿を父のように慕って独断で運ぶことは無かったが[1]李勝丁謐何晏らをブレーンとして側近で固め、即位した曹芳(少帝)に丁謐の策を容れて司馬懿を太尉から太傅にするよう上奏した[2][1]。これにより曹爽は政治の実権を掌握し、他を圧する事になった[2]。曹爽は武安侯に封じられ領邑は1万2000戸を数えた[2]。さらに側近を次々と要職につけ、身内に高い爵位を次々と与えた。私生活も華美なものになり、その様式は皇帝に準じるまでになり、専横を極めたが誰も反対する者はなかった[2][3]。曹爽は飲食から乗り物、衣服まで皇帝と同じ物を真似て美女を侍らせて淫楽にふけった[1]

244年、蜀討伐の軍を派兵したが、蜀の費禕の反撃を受けて敗退した[3]興勢の役)。これを機にその権勢に翳りが生じた[3]

248年冬、曹爽は病と称して屋敷に閉じこもっている司馬懿の存在を気にして荊州刺史として赴任する李勝を司馬懿の下に挨拶に行かせて動静を探ろうとした[3][1]。李勝は司馬懿の仮病と芝居にすっかり騙されてありのままを曹爽に報告し、司馬懿を恐れる事は無くなった[3][1]

249年1月、曹爽は兄弟と共に少帝の共として明帝の陵墓に参拝に出た[4]。その隙を突いて司馬懿父子の逆クーデターが起こった[4][1]高平陵の変)。司馬懿は明帝の皇后であった郭皇后を抱き込んだ[4]。このため曹爽らは洛陽の手前の洛水の橋で立往生となった[4]。曹爽の側近の中には少帝を擁立して地方に逃れて司馬懿を打倒しようという意見もあった[4]。そこに司馬懿から官位を剥奪する処分にとどめるという条件を打診され、それを信じて曹爽は降伏した[4]

しかし同年のうちに曹爽とその三族は誅殺された[4][1]。以後、魏は司馬懿一族に実権を握られて皇帝は傀儡となっていく[1]

三国志演義』でも淫楽にふける人物として描かれている。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m 伴野朗『英傑たちの三国志』、P58
  2. a b c d e f g 小出『三国志武将事典』P193
  3. a b c d e 伴野朗『英傑たちの三国志』、P59
  4. a b c d e f g 伴野朗『英傑たちの三国志』、P60

参考文献[編集]