費禕

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費 禕(ひ い、? - 253年1月)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家武将文偉(ぶんい)[1]。同族は費伯仁費観。子は費承費恭、女子一人(劉璿の妻)。

生涯[編集]

劉備の時代[編集]

荊州江夏郡鄳県(現在の湖北省武漢市江夏区)の出身[1]。幼少時に父を失い、族父の費伯仁に従って蜀に移った[1]。荊州南郡の董允らと共に名声が高かった[1]

董允の父の董和は息子と費禕のどちらが優れているのかと常々思っていた[1]。ある時名士の息子が死去し、その葬儀に費禕と董允が共に行くことになった[1]。董允は父に馬車がほしいと頼み、小さな車を出した[1]。董允は小さな車なので乗り渋ったが、費禕はすぐに乗り込んだ[1]。葬儀場には既に諸葛亮ら高官も来ていたが、高官の馬車が大層立派なのに対し自分達の馬車は貧相だった[1]。そのため董允は到着してもまだ不安な様子だったが、費禕はゆったりと落ち着いていた[1]。董和は戻ってきた馬車の御者からそれを聞いて「わしはお前と文偉のどちらが優れているか測りかねていたが、今ではわしにもよくわかった」と述べた[1]

劉備が皇帝に即位し、息子の劉禅皇太子に立てると、費禕は太子舎人となり、直後に太子庶子に昇格した[2]

劉禅の時代[編集]

223年に劉備が崩御すると、劉禅が即位しその下で黄門侍郎になる[2]225年、諸葛亮が南征から凱旋すると蜀の文武百官は成都の南郊まで出迎えた[2]。この百官の中で費禕は年齢も官位も下のほうであったが、諸葛亮は費禕を名指しで指名して自分の車に同乗させた[2]。このため、多くの人が費禕に対する見方を変えるようになった[2]

諸葛亮が南征から戻ると費禕は昭言校尉に任命され、孫権への使者として派遣された[2]。孫権や諸葛恪らは費禕に対して舌鋒鋭く議論を吹き掛けてきた[2]。費禕は正しい言葉遣いと篤実な態度で道理に寄りつつ孫権らに対して返答した[2]。孫権はその返答に費禕の人物を高く買い、「お前は天下の善徳の士である。必ずや蜀朝の股肱の臣になるであろうから、多分何度も来ることは不可能だろう」と述べたという[2]

他に費禕と孫権に関する話として裴松之が伝えるところによると、

  • 孫権はいつも特別に上等の酒を注いで費禕に飲ませた。彼が酔っ払ったのを見澄ました上で国事について質問した。同時に当代の要務について論じ、次々と難題を吹きかけた。費禕はその度に酔っておりますからと断り、退出してから質問を吟味して順序立て、全ての問題を箇条書きにして返答し、遺漏するところが無かった。
  • 孫権がいつも手にしている宝剣を費禕に送った。費禕は「臣は不才でありますゆえ、どうして恩賜に耐えることができましょうか。しかしながら剣は主命に従わぬ者を討伐し、暴虐を抑えるためのものであります。ひたすら大王様が功業の樹立にお励みになり、共に室を推し立てて下さることを願っております。臣は暗愚ではありますが、終生東方の恩顧に背かない所存です」と述べた。

以上は『費禕別伝』に記録されている。

他にも費禕の特異な能力を記録しているものがある。

  • 費禕は人並み外れた理解力を持っており、記録を読む場合、いつも眼をあげてしばらく見つめるだけで、もうその内容に精通していた。その速さは人の数倍であり、また決して忘れることがなかった[3]
  • いつも朝と夕に政務をはじめ、その間に賓客を応接し、飲食しながら遊び戯れ、博打までして人々のやる楽しみを尽くしながら、仕事も怠らなかった。董允は費禕に代わって尚書令になると費禕の行為を真似しようとしたが、10日足らずで多くの仕事が渋滞してしまった。そこで董允は「人間の才能や力量がこれほどかけ離れているとは、これはわしの及びもつかぬ事だ。1日中政務にかかりきりでいて、まだ暇がないことさえあるのだから」と嘆息して言った[3][4]

234年、諸葛亮が死去すると、後任になった蒋琬を支えた。244年曹爽が蜀に侵攻してきた際、費禕にも出陣命令が下った[4]。いわゆる興勢の役であるが、出陣前の多忙な時に費禕の下に光録大夫の来敏が送別の挨拶にやって来た[4]。来敏は囲碁をやろうと申し入れ、費禕は出陣準備で忙しい中で応じた[4]。費禕は来敏と共に対極に熱中し、嫌がる様子を見せなかった[4]。来敏は「先ほどはいささか貴方を試してみたのです。貴方こそ、本当の適任者です。必ず賊軍を料理することができましょう」と笑いながら言った[4]。費禕が出陣すると魏軍は撤退した[4]。この功績で成郷侯に封じられ、その功績や名声は蒋琬にほぼ匹敵した[4]

国家の柱石[編集]

246年に蒋琬が死去し、費禕が蜀を支える社稷の重臣となる。費禕は慎重な現実重視主義者で、積極的な軍事活動はしなかった。蜀の軍事活動を担う姜維に対して「我々は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。その丞相ですら、中原の地を平定しえなかったのだ。まして我らに至っては問題にもならない。まずは国家を保ち、民を治め、謹んで社稷を守るにこしたことはない。功業樹立の如きは能力のある者の出現を待ってしよう。僥倖を頼んで一戦で勝敗を決しようなどとは考えまいぞ。もし、思い通りいかなかった場合、後悔しても間に合わないのだ」と述べて諌めたという[5][6]

253年1月、正月の宴席において魏の降将である郭循により刺殺された[4]。大好きな酒で酔っ払っているところを[4]、刺されたのだという。

費禕の死後、その地位を継げる者はおらず、姜維は連年のように北伐を繰り返し、国政は宦官黄皓によって壟断されて蜀は衰退の一途を辿っていくことになった。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k 伴野朗『英傑たちの三国志』、P216
  2. a b c d e f g h i 伴野朗『英傑たちの三国志』、P217
  3. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P218
  4. a b c d e f g h i j 伴野朗『英傑たちの三国志』、P219
  5. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P221
  6. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P222

参考文献[編集]