劉封

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劉 封(りゅう ほう、? - 220年)は、中国後漢末期の武将。父は寇氏。母は不明。劉備養子で副軍将軍。子に劉林

生涯[編集]

荊州長沙郡[1]羅県の出身。元は寇氏で長沙の劉氏の甥に当たる。劉備が荊州に来た頃にはまだ実子がいなかったため養子となった[1]

劉備の入蜀時にその秀でた武勇で活躍し、副軍中郎将となる[1]219年に同僚の孟達と共に上庸郡平定で活躍し、その功により副軍将軍となった[1]。同時期に荊州の関羽が孫権呂蒙に攻められ関羽から援軍要請が来るが、劉封は平定したばかりの地域の動揺を恐れて断った[1]。同年に関羽は戦死し、援軍を送らなかった劉封は劉備から恨まれるようになる[1]。また孟達とも不仲になり、孟達が曹操亡き後に跡を継いだ曹丕に寝返り、さらに夏侯尚徐晃の支援を得て攻めて来る[1]。孟達は劉封に手紙を送って帰順するように勧めたが、劉封は拒否して孟達らと戦い、敗れて成都へ引き返した[1]。しかし敗戦の罪や諸葛亮が劉封の豪勇を恐れ劉備亡き後に制御できなくなると判断して劉備に処刑するように勧めたため[1]、劉備も関羽の一件も含めて処刑に踏み切った。その際、劉封は「孟達の言葉を採用しなかったのが残念だ」と言い残して自殺した[1]。年齢は30歳くらいだったと思われる。劉備は劉封の死去を知り悲しんだという[1]

三国志演義』では樊城県令である劉泌の甥で、劉備が気に入って養子にしているが劉禅が生まれた後に養子縁組がなされており時期が史実と異なっている。この際に関羽が既に劉禅がいる事を理由に難色を示すなど劉封と不仲になり後に援軍を送らなかった遠因となっている。関羽の息子の関平とペアを組み、劉備の入蜀に従う。この際に関平が荊州に戻るとペアは孟達に変更されている。曹操の次男・曹彰に一騎討ちで敗れているが、諸葛亮の指示に従って曹操軍を破っている。援軍を送らなかったことには後悔しており、後に孟達に上庸を奪われた際に劉備に謝罪したが、劉備は一時の怒りで許さず処刑。後に劉封の苦悩を知り劉備はその処刑を後悔した。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k 小出『三国志武将事典』P351

参考文献[編集]