譙周
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譙 周(しょう しゅう、? - 270年)は、中国の後漢末期から三国時代の蜀・魏・西晋の政治家・学者。字は允南(いんなん)[1]。子に譙熙・譙賢・譙同。孫に譙秀・譙登。陳寿の師匠でもある。
生涯[編集]
益州巴西郡西充国の出身[1]。身長は8尺(約184センチ)で、経学と天文に優れており、勧学従事に任命される[1]。姜維の北伐の際には国家の負担などを考慮して反対し、無謀さを説く『仇国論』を著した[1]。蜀では太子僕、光禄大夫に昇進する[1]。263年の蜀滅亡の際には鄧艾が成都に迫ると劉禅に降伏を勧めた[1]。後に魏、そして西晋で散騎常侍に昇進して『法訓』『五経論』などの著書を著した[1]。270年に70歳前後で死去。
『三国志演義』では劉璋の部下として第65回から登場。この際に劉備への降伏を劉璋に勧めて斬られそうになった。後に蜀で諸葛亮と姜維の北伐に対して占いで凶兆が出たなどと述べて反対する。劉禅に史実どおり降伏を勧めている。