劉 璿(りゅう せん、224年 - 264年)は、三国時代の蜀の皇族・皇太子。字は文衡(ぶんこう)[1]。第2代皇帝・劉禅の長男で、生母は敬哀皇后の侍女・王貴人[1]。妻は費褘の長女。
238年に立太子される[1]。騎馬や射撃、遊学を好んだので太子中庶子の霍弋から諌められる[1]。263年の蜀滅亡の後、翌年に鍾会と姜維が画策した成都での反乱に巻き込まれる形で殺された[1]。
『三国志演義』では名のみ登場で史実どおりに殺害されている。