孫夫人
孫夫人(そんふじん、生没年不詳)は、中国の後漢末期の人物。三国時代の呉の公主で蜀の劉備の妻の1人。諱は不明。父は孫堅。異母兄弟は孫策・孫権・孫翊・孫匡。同母兄弟は孫朗。姉は弘咨夫人・陳某夫人ら。小説『三国志演義』では、呉国太(孫堅の第2夫人、第1夫人の呉夫人の妹)が生母という設定になっている。一般に孫 尚香(そん しょうこう)の名でも知られているが、これは京劇で使われる名前である。同じく『演義』では孫仁(史実では孫朗の別称)として設定されている[1]。
生涯[編集]
孫堅の娘で孫策・孫権の妹[1][2]。才気や武勇で兄に匹敵し、208年の赤壁の戦いの後に孫権が劉備と友好関係を深めるための政略結婚の一環として劉備に嫁いだ[2]。しかしこの夫人は男勝りで常に薙刀を持った侍女ら100人を侍立させていたので[2]、劉備は奥に入ることを恐れていた[1]。さらに大勢の孫家の官兵を率いて自分勝手に振る舞って法を守ろうとしなかった[1]。劉備は法に厳格な家臣の趙雲なら彼女の行動を抑えられると考え、奥向きのことを取り仕切らせた[1]。
劉備が益州への侵攻を開始すると孫権は妹を迎えるために多くの船を派遣した[1]。孫夫人も国に帰りたかったので劉禅も一緒に連れて行こうとしたが、趙雲と張飛により長江で劉禅は取り戻された[2][1]。以後の孫夫人の記録は存在しない。
三国志演義[編集]
三国志演義では孫仁という姓名に設定され、赤壁の戦い後に台頭しだした劉備の存在に懸念した孫権が周瑜の献策で劉備を酒と女で骨抜きにするために江東に誘った上で結婚する形で登場する[1]。この策は最初は成功して劉備は江東に長期間滞在して国政を怠るようになるが、諸葛亮の献策により孫夫人を伴って帰国する[1]。帰国する際に徐盛ら孫権配下の武将が劉備を捕らえるために追跡してくるが、孫夫人はその都度それら顔見知りの武将らを叱り付けて追い散らしている。第61回で孫権は益州攻めで劉備が留守の際に母親が重病であるという偽の情報を周善に授けて劉禅を引き連れて帰国させようとするが、趙雲に見つかって追跡され、さらに張飛にも追いつかれて周善は斬られてしまう。しかし夫人にはさすがに手を出せず、そのまま彼女は江東に戻った。なお、史実と異なり劉備との関係は良好なものとされている。
第84回の夷陵の戦いで劉備が戦死したという誤報を聞いて長江に入水自殺している[1]。ただしこの設定は「毛宗崗本」だけであり、「嘉靖本(弘治本)」には無い[1]。