尼子晴久

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尼子 晴久(あまご はるひさ、永正11年2月12日1514年3月8日) - 永禄3年12月24日1561年1月9日))は、戦国時代出雲戦国大名。出雲・隠岐備前備中備後美作因幡伯耆守護大名尼子経久の嫡孫に当たる。戦国大名の尼子氏の当主としては2代目。子に千歳、義久倫久秀久、娘(三沢為清室)らがいる。

生涯[編集]

父は尼子政久。母は山名氏。通称は三郎四郎。受領名は民部少輔、修理大夫。初名は詮久(あきひさ)。

彼は政久の二男であるが、生まれた時には既に長兄は死去しており、また父の政久も阿用城攻めで戦死したため、祖父の尼子経久から後継者に選ばれた。天文6年(1537年)、経久の隠居により家督を相続する。相続後は勢力拡大に奔走し、播磨赤松晴祐(政村)を攻めて追討し、さらに龍野城も攻略した。

天文9年(1540年)に安芸毛利元就を追討するために吉田郡山城を攻める。しかし病床にあった祖父・経久からは血気にはやる詮久の力量を心配して自らの弟で思慮深いことで知られていた尼子久幸(義勝)が後見人として付けられた。それにも関わらず血気にはやり、毛利元就の諜報戦術に翻弄されて陣の取り方まで左右されたと『陰徳太平記』には記録されている。この吉田郡山城の戦いで晴久は大敗を喫し、久幸を失って出雲に敗走した。

天文10年(1541年)に室町幕府征夷大将軍足利義晴から「晴」の一字を賜って晴久と改名する。だが同年には隠居として睨みをきかせていた経久が病死し、これを見た周防大内義隆に毛利元就ら離反した国衆などが総動員されて尼子氏の居城月山富田城が包囲されることになる。いわゆる第1次月山富田城の戦いであるが、富田城の堅固を利用した尼子氏の籠城戦により大内軍は大敗を喫し、義隆の養子であった大内晴持などを失って周防に敗走し、晴久は再度勢力を盛り返して寝返った国衆なども味方に付けることに成功した。

天文20年(1551年)に大内家中で大寧寺の変が発生し、大内義隆とその一族が家臣の陶晴賢に討たれる事件が起こる。晴久はこれを機に石見に進出して勢力を拡大し、天文21年(1552年)に将軍・足利義輝から山陰8か国の守護職を与えられることになった。

だが、天文23年(1554年)に不仲だった叔父・尼子国久やその嫡子である尼子誠久ら、尼子氏の軍事において強大な勢力を誇っていた新宮党を晴久は誅殺してしまう。これには自らの中央集権を進める狙いがあったとされているが、『陰徳太平記』や『雲陽軍実記』などでは毛利元就の謀略に引っかかった晴久がもともと不仲だった国久らをこの機会に粛清したのだと記録されている。

晴久は内政においては石見銀山を資金源として李氏朝鮮南蛮への貿易ルートを開拓したり、宿敵の大内氏とは大寧寺の変後に和睦するなど敏腕を発揮して勢力の拡大と安定を図っている。しかし陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に討たれ、さらに晴賢に傀儡として擁立されていた大内義長までが元就に討たれて大内氏が滅亡し、その旧領の大半が毛利氏に吸収されると、以後は毛利元就による石見侵攻を受けることになる。一時は忍原崩れと呼ばれるほどの大勝もしたが、やがて石見銀山をめぐって毛利元就の侵攻が激しくなり、晴久は元就の侵攻を何とか防ぐに終始していた。

永禄3年(1560年)12月に居城の月山富田城において急死を遂げた。47歳没。記録によると突然倒れて昏睡状態となり、そのまま死去したとあることから、脳出血の可能性が高いと推測される。

嫡子の義久が家督を継承したが、5年後、毛利家家臣として元就の軍門に降ることとなった。一方、家臣の山中幸盛は誠久の息子の勝久を擁して尼子家再興を図ることとなる。

人物像[編集]

内政手腕に敏腕を発揮し、大内氏や毛利氏の侵攻を防いでいることなどから、それなりの力量を持った武将だったと考えられる。かつて『信長の野望』シリーズでは政治と武勇、統率はなかなかの数値なのだが知略に関しては異常に低いというのが定番となっており、よく毛利元就に暗殺されたり翻弄されたりしていた。近年ではこの晴久の事績が見直されたこともあり、知略も大幅に上昇して名将と言える人物にまで成長している。

『雲陽軍実記』では久幸が晴久を「短慮で大将の器に乏しく、血気にはやって仁義に欠けている」と評したと記録されている。

関連作品[編集]

小説
テレビドラマ
ゲーム