菊姫 (上杉景勝正室)

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菊姫(きくひめ、永禄元年(1558年)? - 慶長9年2月16日1604年3月16日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性武田信玄の5女。母は油川夫人上杉景勝正室

生涯[編集]

父は武田信玄で5女。母は油川信守の娘・油川夫人。同母の兄弟姉妹に仁科盛信葛山信貞松姫。異母兄に武田義信武田勝頼らがいる。菊姫は信玄の5女とされるのが通説であるが、生年に関して不明な点もあり、松姫と順序が入れ替わる場合もある。

菊姫ははじめ異母兄の勝頼の意向で石山本願寺との政略結婚が決められていた。しかし天正6年(1578年)3月に上杉謙信が死去して養子の景勝と景虎との間で家督をめぐる抗争が起きた際(御館の乱)、勝頼と景勝との間で和睦・同盟(甲越同盟)が成立したため、その証として菊姫は景勝の正室として嫁ぐことになった。嫁いだ時期は『上杉家御年譜』では天正6年10月20日、『甲陽軍鑑』では天正7年(1579年)10月20日とある。

天正10年(1582年)の織田信長による武田征伐で勝頼や盛信らは自害し、実家の甲斐武田氏は滅亡し、菊姫は身寄りの無い身となる。この際、異母弟の武田信清が菊姫を頼って越後に落ち延びてきたので、菊姫は景勝に嘆願し、信清は3000石の上杉家家臣として取り立てられて武田勝信を称した。その後、勝信の子孫は明治維新まで続いた。

信長の死後、豊臣秀吉の天下となり、景勝も豊臣政権に臣従したためその証として人質提供を求められ、菊姫は越後春日山城から大坂に移ることになり、後に伏見に移った。景勝は豊臣政権で五大老となり、さらに越後から会津120万石へ移され、秀吉没後の関ヶ原の戦いでは徳川家康により出羽米沢藩30万石に減移封されているが、菊姫は会津にも米沢にも赴くことなく伏見で過ごした。 景勝との夫婦生活を記した記録は存在せず、仲が良かったのかどうかは不明で、子女にも恵まれなかった。

慶長9年(1604年)2月19日に伏見の上杉屋敷で死去。法名は大儀院殿梅岩周香禅定尼。

その死因に関しては諸説ある。 『上杉家御年譜』では病に倒れたため、異母弟の信清が看病のため上洛したがその甲斐なく病死したとあり、『上杉家編年文書』では子に恵まれない景勝に側室としてが迎えられた桂岩院が程なく懐妊したため、嫉妬に狂った果てに自殺したとされる。 なお、同書においても信清が上洛するのは一致しているが、この場合は家老の直江兼続が菊姫の不慮の死を世間に知られることのないように米沢で葬儀を執り行うために信清を伏見に遣わしたとしている。しかし信清が上洛する前に奥家老の宮島親家妙心寺の塔頭亀仙庵で独断で葬儀を済ませてしまっており、親家は直江の責めを受けて改易されて浪人となったという。

参考文献[編集]

菊姫が登場する作品[編集]

書籍
小説
  • 阿井景子『お菊御料人―景勝の正室(つま) 』(光文社)2009年刊(文庫書下ろし) ISBN 433474673X
テレビドラマ
漫画