利用者:あんだく

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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あんだく(庵濁、Andak)と申します。
記事書いたり更新を追ったりできてませんが、元気にしてます。

--Andak ( Talk / Record / Count / Data ) 2020-07-03T05:54:07 (JST)

略歴等[編集]

  • 関東地方在住の大学生です。
  • 2012年6月にアカウント作成。
  • 怠惰と大学受験勉強のため2015年8月ごろ~2017年4月ごろまで長期ウィキブレイク。
  • 2017年7月ごろからもウィキブレイク。
  • Wikipedia、Uncyclopedia、Weekpediaなどの利用者あんだくと同一です。
  • 利用者IDは2ndが344、3rdが23、グローバルが61です。

作成・大加筆記事[編集]

10記事ごと段落。リダイレクト、曖昧さ回避などは除く。

2nd時代 65記事[編集]

3rd時代 (~2016) 71記事[編集]

3rd時代 (2017) 1記事[編集]

3rd時代 (2020~) 1記事[編集]

よみもの 1記事[編集]

大加筆・大改筆 4記事[編集]

Enpediaとは何かについての私論・自身の執筆方針[編集]

Enpediaで恒常的な活動をしなくなってから長らくたってしまっているので、今更こういったことを言うのは少々場違いであるとか、気恥ずかしいとかあるのですが、なんだかんだで昔から考えていることですし、利用者ページなので少しまとめておきたいと思います。でも、いつか誰かが、ふらっとこのページを訪れたときに読んでもらえたら嬉しいです。

さて、単刀直入に言うと、私はEnpediaが何であるか以上に、何のためにあるのかということについて、割と昔から考えていましたし、自分なりの答えを見出して、それに基づいてかつては執筆をするように心がけていました。

とくに私が知る限りいままでのEnpediaではEnpediaがいかなるものであるか(何なのか)はしばしば話題になっている一方で、Enpediaがそもそも何を目指すものなのかに関しては話題になったりしてきたことが、前者に比べて少なかったように認識しています。前者にかんしてはとても分かりやすくて、「ゆるい」「ミヤコ様」の2つのワードで8割が説明できると思っていますし、実際にそうだと思います。ゆるさがなければEnpediaではなく、ミヤコ様がいないEnpediaなど考えられないでしょう。しかし、Enpediaはなぜ存在しているのでしょうか。

Enpediaの存在目的を考えることは、百科事典モドキとは何であるのかを考えることとかなり似ていると思います。では、百科事典モドキとは何のために存在している、あるいはどのように存在するべきなのでしょうか。

百科事典とは本来、その情報が正しくなければ意味のないものです。なぜならば、情報を調べるために百科事典は使用されるからです。しかし、百科事典モドキであるEnpediaの記事の情報がどれほど正しいのかと言われると、もちろん記事にもよりますが、情報が適切ではなかったり、情報がほとんどなかったりする記事も多くあり、正直なところ一般的な百科事典やWikipediaに対して情報の価値は往々にして劣っていることを認めざるを得ないでしょう。したがって、Enpediaという百科事典モドキでは、百科事典を目指して存在することはできません。

では、百科事典を目指せない以上Enpediaにはもう何も目指せないのかというと、もしかしたら「Enpediaではユーザー間の交流が活発であり、それが楽しいからいいのだ」と批判できるかもしれません。たしかに、Rest空間のようにEnpediaにはユーザーのためのお楽しみ要素が充実しています。しかし、それがEnpediaの存在目的であるかと言えばそれにイエスと答えるユーザーはあまり多くないのではと思います(もちろん、そういったユーザーを否定するつもりはございません)。

このように考えたのち、私にはEnpediaの目指せる目的の一つして百科事典ではない情報提供サイトがあるのではないかと思うようになりました。これはどういうことかというと、正確性が求められないが有益な情報を得られるウェブサイト、ということです。百科事典であることを念頭に置きすぎるとEnpediaの記事は否が応でもWikipediaの二番煎じっぽくなってしまいます。しかし、Wikipediaの二番煎じは気分的に避けたいところです。Wikipediaでも、Uncyclopediaでもない、Enpediaならではの強みの可能性として、正確さよりも有益さを求める姿勢はアリではないかと私は思うのです。

「有益さ」とはどういうことかというと、一般的な百科事典では満たしきれなかったニーズを埋め合わせるということに他なりません。例えば、誰でも人生の中で1度や2度はそれなりの名前の付く病気やけがを自分や自分の家族などが診断されたりした経験があるかと思いますが、そういったときに病気やけがの名前を検索して出てきたWikipediaの記事がぜんぜんわからなくてWikipediaを閉じることがあると思います。どうしてこういうことが起こるかというと、私たちは神経がどうのこうのだとか、ナントカ薬がこういったふうに作用して、といった「正確な」情報よりも、まず何科に行けばいいだとか、こういった症状が出てきたら要注意だとか、症状が似ている別の病気はこれだけれどその病気とはこういう風に異なっているだとか、そういった「有益な」あるいは「生活に根差した」情報を求めているからではないでしょうか。あるいは、そういった病気やケガの経験がある人からのコメントなどがあると、とてもありがたいなあと思うことがあるかと思います。

何も、病気に限ったことではなくて、例えば食べ物の記事なら食レポやおすすめの食べ合わせなんかを書いても面白いだろうし、ゲームの記事だったらプレイした感想やクリアに当たってのコツを書いたりするのもいいかもしれません。ミュージシャンの記事なら、有名曲のYouTubeへのリンクをたくさん貼ってもいいでしょう。そして、これらはみんな興味深くて有益な情報になると言えると思います。

このように、日常生活には正確な情報よりも生活に根差した有益な情報が求められる場面があり、そういった場合には100%の正確さは求められません。そして、100%の正確さが求められるわけではないからこそ、そういった内容はWikipediaや普通の百科事典には載せられないことになります。一方で、Enpediaならそれができます。Enpediaの「ゆるさ」、もっと具体的に言えば特筆性の低さや表現方法の自由さといったものは、記事の低質さを肯定するためのものではなく、百科事典的であることにとらわれない記事の多様性を肯定するものであるのではないかと、私は認識してきました。

私のかつてのEnpediaでの活動(とくに記事の執筆)は、こういった観点になるべく基づこうとしていましたし、これからもときどきEnpediaにやってくるときには気を付けていきたいと思っています。

最後に、いままでの私のEnpediaでの活動の中で、上記の理念を重視したものでパッと思い出せたものを(具体例・抽象的理念を問わず)ここに書きたいと思います。

  • 鉄道駅の記事には、主要駅までの移動時間を書く → その地域に詳しくない人でも距離感がわかる。Wikipediaにはできるまい。
  • よく聞く聖歌一覧よく使われるフリー音楽素材曲一覧など → 主観的なまとめは正確性よりも有益性が求められる最たる例。Wikipediaにはできるまい。
  • テンプレート:コラム → 関連して「知りたかった!」な情報が付け加えられる。Wikipediaにはできるまい。
  • テンプレート:練習問題 → あると便利に違いない。Wikipediaにはできるまい。
  • Wikipediaにはない記事 → Wikipediaにはできるまい。SoundCloudとか最初はWikipediaに記事がなかったからググったらEnpediaがやや上のほうに来てたのに、いつの間にかWikipediaに記事ができててちょっとググるだけで上に来てたから残念だった。あの頃なら激おこぷんぷん丸。今思い返すとぴえん。