佐渡島

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佐渡島(さどがしま)とは、新潟県に所属する日本である。日本海側最大の島であり、南北54キロ、最大幅31キロ、周囲264.5キロ、面積857平方キロである。新潟市の西およそ45キロの日本海上に位置する島である。

概要[編集]

佐渡の名の由来は、佐渡国能登国の間にある狭い海路を示す挟門(さど)や郡郷名である雑太郡雑太郷に由来するとも、アイヌ語の「サット」「乾いた」の言葉と関連させる説などがある。

アルファベットのHに近い形の島で、北西部の「大佐渡」と南西部の「小佐渡」に分かれ、大佐渡には金北山を中心とする大佐渡山地、小佐渡には小佐渡丘陵が連なる。この両方の山地に挟まれた中央部に国仲平野が開け、国仲平野に向かって北から両津湾、南から真野湾が湾入する。島の周囲には対馬暖流が流れているため、地理的位置から受ける感じよりも気候は温暖であり、積雪も県本土より少ない。

「ニッポニア・ニッポン(Nipponia nippon)」という学名を持つ朱鷺の最後の自然種が棲息していた島でもある。佐渡島東部には姫崎に建つ姫崎灯台があり、世界灯台百選に数えられて文化遺産として永久保存されている。また、小木のたらい舟も有名で、観光や漁業に用いられている。

新潟県本土部の大半で商用電力周波数は50Hzだが、佐渡は糸魚川市の旧青海町とともに60Hzである。但し、北陸電力管内との系統連系は行われていない。

歴史[編集]

古事記』のイザナギイザナミの2つの神の国産み神話に佐渡島は登場している。

この島は縄文時代弥生時代遺跡として藤塚貝塚新穂玉造遺跡といった遺跡が各所に存在し、奈良時代の記録では既にこの時代の初期には一国と認められ、国仲平野で条里水田の開発が進められた。

中世になると本土で大罪を犯した著名人の流刑島として扱われた。承久の乱に敗れた順徳上皇鎌倉幕府を批判した日蓮正中の変で鎌倉幕府に捕縛された日野資朝(資朝は元弘の変の後に幕府によって佐渡守護・本間山城入道によって佐渡において処刑)、室町幕府第6代征夷大将軍足利義教によって流された世阿弥などがいる。これら著名人が流されたことは、逆に中央文化をこの島に伝えることになり、島には「流人文化」ともいうべき文化が様々な形で残されることになった。

戦国時代になると、上杉謙信の父・長尾為景関東管領上杉顕定に追われて佐渡島に逃亡し、ここで再挙を果たして本土に戻り、顕定を討ち果たして戦国大名として名乗りを挙げた。ただし佐渡は必ずしも長尾氏上杉氏の支配下にあったわけではなく、実際は在地に強い勢力を誇っていた本間氏の支配下にあり、この本間一族の間で激しい争いが繰り返されていた。天正17年(1589年)、為景の外孫で謙信の養子である上杉景勝の時、武力をもって本間氏は征伐され、佐渡は上杉氏の支配下に入り、上杉氏会津転封後も佐渡は上杉氏支配下だった。

江戸時代になると、佐渡は江戸幕府の直接支配となり、佐渡奉行所が相川に置かれた。理由は相川地区で金山・銀山の採掘が進展していたからである。このため、大いに佐渡は繁栄を遂げて日本版ゴールドラッシュが訪れ、採掘全盛期であった江戸時代前期の慶長から寛永年間(1596年から1644年)には人口が10万人を数え、江戸等から多くの無宿者(現在でいう住所不定無職者)が過酷労働の水汲み傭人として佐渡島に送られた。
しかしこれらの鉱山はその後は次第に採掘量を減らし、平成元年(1989年)に採掘は中止された。

大政奉還後の1868年、佐渡奉行所が改組されて、佐渡裁判所となり、1869年の佐渡県を経て島内を県域とする相川県が発足するも、1876年に新潟県に合併され、以来新潟県域となっている。島内にあった3郡(雑太、羽茂、加茂)は1896年に統合し佐渡郡となった。

佐渡の自治体[編集]

かつては両津市相川町佐和田町金井町新穂村畑野町真野町小木町羽茂町赤泊村が存在していたが、平成16年(2004年)、島内全ての地方公共団体平成の大合併をしたため、現在は佐渡市1市のみとなっている。

佐渡の官公署[編集]

1876年(明治9年)に佐渡島を県域にしていた相川県が新潟県に合併されたこともあり、佐渡島全域を管轄する新潟県の機関は相川町に多く置かれていた。現在も佐渡地域振興局の本局、税務署、法務局支局が相川に置かれている。
地方裁判所、家庭裁判所の支部、簡易裁判所は旧佐和田町、警察署は旧真野町に置かれている。

交通[編集]

航路[編集]

著名な出身者[編集]

舞台にした作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

小説[編集]

漫画[編集]

アニメ[編集]

ゲーム[編集]

事件[編集]

外部リンク[編集]