太宰治

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太宰 治(だざい おさむ、1909年6月19日 - 1948年6月13日)とは、日本の小説家である。

概要[編集]

頽廃的な作風が脚光を浴び、一躍流行作家となる。現在も作品が読まれ続ける文豪の1人。

太宰というと『人間失格』『斜陽』『晩年』、そして『走れメロス』だけしか読んだことがないという人も多いだろうが、他にもユーモアあふれる作品や意欲的な作品なども手がけている。

彼の忌日(遺体が発見された日)である6月13日には「桜桃忌」と名付けられ今も太宰ファンが太宰の墓に参拝に訪れる。

2018年は没後70周年になる。

来歴[編集]

青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に、父津島源右衛門と母たね(夕子)の第十子・六男として生まれる。長男・次男は夭折している。他に同居していた親族には曾祖母・祖母・叔母の家族ら17人。さらに乳母女中・行儀見習・子守なども含め三十数人とともに暮らしていた。

津島家は曽祖父・惣助の時代に製造販売や金貸し業で富を築き大地主となった。婿養子として入った源右衛門は惣助の創業した金木銀行の頭取としてさらに発展させ31歳で青森県議員に1904年には県内多額納税者番付第4位となった。太宰は「私の家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。ひとりの芸術家もいない役人将軍さえいない。実に凡俗のただの田舎の大地主というだけのものであった。(中略)しかしその家系には複雑な暗いところは一つも無かった。財産争いなどという事は無かった。要するに誰も醜態を演じなかった。」と書いている(『苦悩の年鑑』)

母は政治家・大地主の妻として多忙だったため太宰は叔母に育てられた。叔母は二人の夫と離縁・死別しており4人の娘と津島家に暮らし我が子のように太宰を育てた・太宰はこの叔母を産みの母と思い込んでいた。『晩年』には叔母が自分を捨てて家を出ていく夢を見るシーンが出てくる。この叔母のことはガチャやガッチャと呼んでいた。

太宰が3歳のとき金木村に住む津島家の小作人の娘・タケ(14歳)が女中として津島家に住み込む。夜は叔母と同じ部屋で寝たが昼間はタケと過ごすことが多くなる。太宰に文字を教えたのはタケである。あるときタケは実家の菩薩寺である雲祥寺に太宰を連れていき、地獄極楽御絵掛地を見せ「嘘をつけば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれる」と太宰を諌める。また、寺にある卒塔婆の鉄の輪(ごしょぐるま)を回してみせ、「逆に回れば地獄へ落ちる」と教えた。この話は『晩年』に出てくる。

母だと思いこんでいた叔母は娘を婿養子に取らせ津島家と分家する。タケもこの家の女中となり金木を離れた。後年、太宰は『津軽』でタケとの再会を描いている。

太宰は普通のこどもが尋常小学校へ入学する2年も前から小学校へタケに連れられて通うことになる。小学校では「金木の殿様の若様」として周囲に一目置かれる立場だった。5年生のとき「将来の希望」についてには「文学」と記している。この頃書いた綴方(作文)は自身を神妙ないい子に見せるように出鱈目に書き喝采を浴びるなどすでに文才の片鱗が見えていた(『晩年』)。太宰は6年間の成績をすべて甲にし主席で卒業生総代で卒業する。さらに学力補充のため高等小学校に入学する。翌年、中学校の入学試験が迫った3月に父源右衛門が52歳で死去する。しかしこのとき長兄が25歳・次兄が23歳・三男が20歳で大人びていたので太宰は心細く感じなかったという(『兄たち』)。

1923年3月に青森県立青森中学校に合格。下宿して4月から通い始める。その年の夏、三兄が東京から持ち帰った同人雑誌で井伏鱒二の『幽閉』を読み、即座に大きな興奮と感動をする。またこの年の1月に相関された菊池寛編集の「文藝春秋」を毎号読んでおりとくに巻頭の芥川龍之介侏儒の言葉』に魅了され、自身も芥川と同じ第一高等学校東京大学の道を歩みたいと思い始める。この頃には校友会誌に『最後の太閤』を発表したり4,5人の級友と同人誌を創刊したりと創作活動を始める。

1927年、太宰は青森中学を148人中第4位の成績を持って4年間で修了する。これは高等小学校に通った1年間の遠回りを取り戻すように猛勉強したためという。この年の5月に芥川龍之介が青森市で開かれた文芸講演会に参加する。太宰はこれを拝聴しておおいに感動する。

1939年、石原美和子と結婚。この時代に『女生徒』『新樹の言葉』『愛と美について』『春の盗賊』などを執筆。女性一人語りを得意としていく。9月より東京三鷹に住み始める。

1940年、『女の決闘』『』『駈込み訴へ』『老ハイデルベルヒ』『走れメロス』『きりぎりす』『ろまん燈籠』などを発表。

1941年、『新ハムレット』を執筆し『東京八景』を刊行。同年、長女が誕生。

1942年、『お伽草子』が完成。

自殺[編集]

1927年、尊敬していた芥川龍之介が自殺。ショックを受ける。同年、青森市浜松の芸妓・紅子(本名:小山初代)と知り合い仲良くなっていく。1929年・太宰20歳の年にかわいがっていた弟が亡くなる。同年・長兄を想起させる「地主一代」を書く。同年12月10日、カルモチンで自殺を図る。家族は「神経衰弱による睡眠薬の飲み過ぎ」として学校に届ける。太宰は母に付き添われて大鰐温泉で静養。この出来事は『苦悩の年鑑』に描かれる。

1930年・21歳の太宰は左翼活動を始める。6月、尊敬していた三兄が亡くなる。9月、太宰が紅子(初代)を青森から東京に呼び寄せたことが長兄に発覚。結婚は承諾されるも生家から分家除籍される。銀座のカフェであつみと出会う。一週間後、鎌倉腰越町小動崎の海岸でカルモチン心中を図る。あつめは絶命するも太宰は生き残る。

1935年、芥川賞に落選。その後パビナールを飲む麻薬中毒になる。入院生活となる。1936年、小山初代が他の男と密通。1937年3月・太宰26歳の年に初代とともに谷川岳の山で心中を図る。このことは『東京八景』『姥捨』で描かれる。

1948年、息子がダウン症に陥っていて知能に障害があったことなどの生活上の苦悩と身体衰弱により生きる自信を失い、玉川上水に身を投げて、愛人山崎富栄とともに入水して自ら生涯を閉じた。残された遺書には「小説をもう書くことができない」といったたぐいのことが書かれていた。

作品[編集]


などの作品がある。現在これらの太宰治の作品の著作権は消滅している。

エピソード[編集]

  • 「走れメロス」という作品を執筆した割には、次のようなエピソードもある。

太宰は熱海で壇一雄と豪遊し、お金を使い果たした。そこで太宰は壇を人質に残し、金策のために東京へ帰った。しかし、太宰が熱海に戻ってこないので壇が見張り役と共に東京に帰ると、なんと太宰は将棋を指していたのである。
そして太宰はこう言った「待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね。」

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『別冊太陽 太宰治』日本のこころ159 平凡社 2009年