北条長順
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北条 長順(ほうじょう ちょうじゅん、? - 永禄12年12月6日(1570年1月12日))は、戦国時代の武将。北条早雲の末子・北条幻庵の3男。
生涯[編集]
当初は箱根権現に入寺していた[1]。恐らく、父のように将来的に同社の別当職を継承することが予定されていたのだと推定されている[1]。
通称は箱根少将。伝わる名は長順のほか、覚胤(かくいん)、あるいは『今川家瀬名家記』にある融深(ゆうしん)である。融深の融は父から別当職を継承した融山の1字を受けたものと思われ、他の法名の「長」「覚」の字も父の関係者に多く見られることから、父と同様に法系ごとに数種の法名を有していたと思われる[1]。
ただ、還俗はしておらず法体の身だったのか、諱は伝わっていない。
永禄11年(1568年)12月、武田信玄の駿河侵攻により、甲相駿三国同盟は破綻して信玄と北条氏康は敵対関係となった。氏康は駿河国をめぐって信玄と争い、前線拠点である蒲原城に一族の北条氏信、そして長順らを入れて守らせた。しかし、永禄12年(1569年)の武田信玄の小田原攻めにより氏康は駿河にいた北条軍の兵力の大半を相模国に戻し、これにより手薄になった駿河に再度、信玄は侵攻して蒲原城は武田軍に攻められて落城し、12月6日に長順は兄の氏信や清水新七郎、狩野介ら多くの将兵と共に戦死を遂げた[1]。