武田信玄の小田原攻め

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武田信玄の小田原攻め(たけだしんげんのおだわらぜめ)とは、永禄12年(1569年)9月から10月にかけて行なわれた武田信玄軍と北条氏康軍の合戦である。信玄は小田原城を包囲したが落とすことはできず、撤退途中に追撃してきた北条軍を三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)で撃破して勝利した。戦場は現在の東京都八王子市滝山町神奈川県小田原市、神奈川県愛甲郡愛川町、津久井郡津久井町[1]

経歴[編集]

この戦いに至るまで[編集]

武田信玄は上杉謙信との対抗上、北条氏康今川義元甲相駿三国同盟を締結していた。しかし永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると今川家では松平元康の自立、遠江での大混乱などで急速に衰退する。これを見た信玄は南下政策に方針転換し、この転換に反対する嫡子・義信とその一派を粛清し、永禄11年(1568年)に遂に駿河侵攻を開始した。これにより三国同盟は破綻し、今川氏真駿河を追われて戦国大名としての今川家は実質的に滅亡する。この際、今川家と重縁関係にあった北条氏康・氏政父子は武田信玄と敵対して氏真を庇護し、徳川家康と通じて信玄と対抗し続ける。さらに氏康は関東の覇権をめぐり長年敵対していた上杉謙信と越相同盟を締結して信玄と対抗[1]。これに対してさすがの信玄も北に謙信、東に氏康、南に家康を敵にして対抗しきれず、永禄12年(1569年)4月に北条軍の攻撃を受けて駿河を放棄して本拠の甲斐に撤退した。

信玄は駿河を手に入れるにはまず北条の勢力を削ぐ必要があるとして、永禄12年(1569年)8月24日に甲府から出陣し、西上野を経て北条領の武蔵に侵攻を開始した[1]

鉢形・滝山城の戦い[編集]

9月10日武田軍は武蔵北部の要衝である鉢形城を包囲する[1]。しかし鉢形城は堅城であり、城主も氏康の4男・氏邦であり、氏邦は徹底した籠城策をとったため信玄は攻略を断念して南下した[1]。次にあたったのは武蔵南部の要衝である滝山城で、ここも堅城で城主は氏邦の兄・氏照であった[1]。武田軍はこの城に攻撃を開始し、信玄の4男・勝頼が攻め手の大将を務めた[1]。勝頼は自ら槍を取って三の曲輪を落とし、さらに二の曲輪の二階門の下で氏照の家臣の諸岡山城守と3度、槍を合わせた[1]。これを聞いた信玄は勝頼が討死しては一大事であるとして滝山城の包囲を解くように命じ、軍を勝坂(現在の相模原市)まで移動した[1]

小田原城攻め[編集]

信玄は滝山城攻めを諦めると、北条家の本拠である小田原城を包囲して城下を放火した[1]。これに対して氏康・氏政らは徹底した籠城策をとり、小田原城が名うての堅城でもあり、包囲数日で囲みを解き10月6日に甲斐に向けて撤退を開始した[1]。この時、退却する武田軍を追撃するため城にいた北条軍の松田憲秀が出撃したが、武田軍の殿軍を務める勝頼に酒匂川で迎撃された[1]。この際、憲秀の家老酒井十左衛門尉と馬上で4回、勝頼が一騎打ちしたと伝わる[1]

三増峠の戦い[編集]

10月8日、信玄は甲斐へ帰国するため相模愛甲郡津久井郡の境にある三増峠を通過しようとした[1]。この時、北条方は小田原を除く関東各地の軍勢を氏照・氏邦らがかき集めて武田軍を迎撃する[2]。この戦いにおける兵力は北条軍が優勢だったが、これは関東各地の寄せ集めの軍勢でしかなく、武田勝頼・馬場信春らが活躍する武田軍の敵ではなく、北条軍は敗れて武田軍は甲斐に帰国した[2]

これらの戦いにおける武田・北条間の勢力はほぼ変わらなかったが、このため武田に備えるために北条軍は兵力を補充の必要から駿河にいた主力を引きあげざるを得なくなる。このため翌月には信玄の駿河侵攻が再び開始され、北条方の蒲原城は信玄により落とされている。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P237
  2. a b 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P238

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六平山優 『武田勝頼のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03424-3