北条綱重
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北条 綱重(ほうじょう つなしげ、? - 永禄12年12月6日(1570年1月12日))は、戦国時代の武将。北条早雲の末子・北条幻庵の次男。
生涯[編集]
名は氏信(うじのぶ)とも言われる。仮名は新三郎[1]。名の綱重の「綱」は伯父の北条氏綱からのものと考えられる。
長兄に北条三郎がいたことから、本来であれば家督相続の権利は無かったが、兄が永禄3年(1560年)に死去したため、その家督を継承した。永禄元年(1558年)4月には足利義氏の小田原の北条氏康私邸の御成に際し、兄の三郎に続いて給仕を務めている[1]。
永禄6年(1563年)、北条氏尭が死去したため、その後を受けて小机城主に就任し、さらに武蔵国河越城の城将にも任命されている[2]。同年には公家の西園寺公朝の娘(春渓宗輝大姉)を正室に迎えている[2]。
永禄11年(1568年)12月、武田信玄の駿河侵攻により、甲相駿三国同盟は破綻して信玄と北条氏康は敵対関係となった。氏康は駿河国をめぐって信玄と争い、前線拠点である蒲原城に一族の綱重、そしてその弟の北条長順らを入れて守らせた。この際に今川氏真とその妻子の身柄を引き取る役目を果たしたのが綱重である[1]。しかし、永禄12年(1569年)の武田信玄の小田原攻めにより氏康は駿河にいた北条軍の兵力の大半を相模国に戻し、これにより手薄になった駿河に再度、信玄は侵攻して蒲原城は武田軍に攻められて落城し、12月6日に綱重は弟の長順や清水新七郎、狩野介ら多くの将兵と共に戦死を遂げた[3]。
法名は少林院殿鉄恵宗心居士。あるいは常楽寺殿衝天良月居士。さらに善福寺殿衝天良月大居士ともいわれ、相模国三島に祐泉寺が菩提寺として建立された[3]。