高天神城の戦い

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高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)とは、日本戦国時代甲斐武田信玄勝頼父子の甲斐武田氏の武田軍と、遠江徳川家康徳川氏の徳川軍との間で繰り広げられた合戦である。

概要[編集]

第1次高天神城の戦い[編集]

永禄11年(1568年)末、武田信玄の駿河侵攻により、今川氏真は領国を追われて戦国大名としての今川氏は滅亡した。この際、三河の徳川家康も信玄と共に今川領の遠州に攻め込んでおり、当時今川の家臣で高天神城を守備していた小笠原長忠は家康に降伏して家臣となる。ところが駿河侵攻の際、信玄と家康は大井川を境にして今川領を分割する約束していたのだが(『三河物語』)、信玄は家康を支援すると称して信濃から遠州に秋山虎繁率いる武田軍を侵攻させた。これは家康の抗議により信玄はすぐに非を認めて秋山を撤退させたが、家康はこれにより信玄に対する不信感を抱き、掛川城に逃げ込んでいた今川氏真を包囲していた家康は、北条氏康との和斡旋を受け入れて氏真と和睦し、氏真は永禄12年(1569年)5月に掛川城を家康に明け渡して海路から北条領に退去した。

これにより家康と信玄の関係は完全に破綻。信玄は家康の同盟者[1]である織田信長に対して家康が氏真と和睦したことを抗議し、「家康はもっぱら信長の助言を得る人だ」と当時の書状に記したりしている。他にも「氏真と家康が和睦交渉をしているのは不可解」「今は信長を頼むほか、味方がいないのだ」などと記している。どうも信玄は家康を信長の従属国衆と見なしていたようであり、これも家康の感情を逆撫でしたのか、元亀元年(1570年10月に家康は信玄との同盟を破棄し、越後上杉謙信と同盟を結び、さらに北条氏康とも同盟を結んで対武田包囲網を結成した。

信玄は家康の実力を試すため、元亀2年(1571年3月に2万の軍勢を率いて遠州に攻め入り、武田四天王のひとりである内藤昌豊(昌秀)に高天神城を攻めさせた。当時、高天神城は小笠原や本間氏清丸尾義清ら2000人が守備していたが、天嶮の要害に築かれたこの城は内藤でも落とせず、城攻めをあきらめて撤退している。

第2次高天神城の戦い[編集]

  • 武田勝頼(甲斐武田氏) 対 小笠原長忠(徳川氏)

元亀4年(1573年)4月に武田信玄が西上作戦の途上で陣没すると、甲斐武田氏の家督は4男の勝頼が継承した。信玄の死により、それまで武田家に押されていた織田信長・徳川家康らはいずれも反撃を開始していたため、勝頼は信長や家康に対してなおも武田家の勢威が健在であることを示す必要があった。そのため、信玄も落とせなかった高天神城を落城させるため、天正2年(1574年)5月3日に2万5000の大軍を率いて甲府から出陣し、5月12日に高天神城の方位を開始した。勝頼は高天神城を力攻めしたが天嶮の要害であったために落とすことは容易でないと判断し、一族の穴山信君を使って小笠原長忠に開城するように説得工作を進めた。これに対して小笠原はこの話に乗るように見せかけながら時間を稼ぎ、その間に家臣の匂坂牛之助浜松城の徳川家康の下に送って援軍を要請した。しかし、当時の家康の最大動員兵力は精々8000であり、徳川単独では到底兵力差から勝機は無かった。そのため、同盟者の信長の援軍を要請するが、信長も当時は越前一向一揆の戦いに忙殺されており、援軍にすぐに赴けるような状態では無かった。

最初は時間稼ぎしていた小笠原も、家康からの援軍が来ないために本気で勝頼との開城交渉を進めざるを得なくなった。その間に高天神城の攻防戦も激しさを増しており、5月28日までに武田軍は本曲輪・二の曲輪・三の曲輪の塀際まで攻め入っていたという。しかし、そこからなかなか進めず武田軍も苦戦する。

この間、信長は越前一向一揆から引き返して美濃岐阜城に引き返し、6月14日に岐阜城から出陣して6月17日に三河吉田城に入城した。信長の後詰を恐れた勝頼は長忠に対する勧誘を始めていたが、信長が吉田城に到着した日に長忠は駿河富士郡で1万貫の所領を約束し、城を明け渡すことに同意した。長忠は城兵に対しては武田家、徳川家のどちらに付くのも自由であると命じた。この際、長忠と共に武田家に従った者を「東退組」と言い、徳川家に留まり高天神城から退城し、浜松城に合流していった者を「西退組」と称したという。

信長は吉田城に到着後、東にさらに進軍を続けて今切を渡ろうとしたところで、高天神城が落城したという報告を受けたので、そのまま軍勢を引き連れて岐阜城に撤退した。勝頼は高天神城の城番に家臣の横田尹松を任命すると、そのまま軍勢を引き連れて甲府に帰還した。

『甲陽軍鑑』によると、この戦勝で勝頼は父の信玄すら落とせなかった高天神城を落としたことで自信過剰になり傲慢になったという。武田家重臣の高坂昌信はこの戦勝での祝宴で「この杯こそ武田家滅びの兆しなり」と述べたという。

家康は高天神城を失ったことで遠江東部の拠点をほぼ失うことになったため、8月1日馬伏塚城を修築し、家臣の大須賀康高を置いて高天神城への備えとした。

なおこの際、小笠原の軍目付を務めていた大河内源三郎正局が武田方によって捕縛され、石牢に入れられた。武田方は大河内に降るように進めたが、大河内は家康への忠義を選んで決して応じなかったという。

第3次高天神城の戦い[編集]

  • 岡部元信(甲斐武田氏) 対 徳川家康(徳川氏)

天正3年(1575年5月21日長篠の戦いで武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍に大敗し、馬場信春内藤昌豊山縣昌景ら多くの重臣を失った。これにより、武田家は急速に衰退してゆく。

家康は長篠の戦いにおける大敗により、遠江北部の要で武田信玄に奪われていた二俣城を奪い返し、さらに遠江中部の武田方の国衆である天野氏を追討した。そして高天神城を奪い返すため、天正6年(1578年)に横須賀城を築城し、大須賀康高を城主に任命して高天神城に対する押さえとした。天正8年(1580年10月、家康は小笠山・中村・能ヶ坂・火ヶ峰・獅子ヶ鼻・三井山の6つの砦を築いて高天神城の付城として包囲を開始し、武田勝頼が高天神城に兵糧・弾薬を入れるのを監視し始めたのである。『家忠日記』によると天正8年(1580年)10月22日のことであるとされている。『浜松御在城記』でも同様の記録がある。この際の家康の高天神城の包囲、封鎖は相当なもので、堀や土塁、高塀に七重から八重になる柵が設置され、さらに一間につき一人ずつ侍を配置して城から城兵が打って出れば増員するという念の入れようで、『三河物語』では「鳥も通わぬ」と記録されている。

勝頼は高天神城の守将として、横田尹松に代わって駿河先方衆のひとりである岡部元信(真幸・長教)が勝頼から任命されて守備に当たっていた。横田は軍監に任命されていた。岡部は善戦したが、家康の包囲の前に次第に苦しくなってきており、勝頼に後詰を要請した。しかし当時の勝頼は北条氏政とも敵対しており、また織田信長と甲江和与を模索していたことから、後詰を送らなかった。実はこの際、岡部を励ますために勝頼が高天神城に使者を派遣して加増を伝えて「ますます戦功に励むように申しつけよ」と述べたとされる記録が『三河物語』から確認することができ、事実であれば勝頼が高天神城の正確な状況を知らずに甘い判断をしていた可能性が指摘されている。

後詰が来ないため、岡部は城兵の助命を条件に高天神城、並びに岡部の持城である滝堺城小山城の引渡しを条件に家康との交渉を開始していた。家康は岡部からの開城交渉を受けると、自らは判断せずに安土城にいた織田信長に対応を相談した。これに対して信長は開城交渉を拒絶するように家康に命じたという。信長はこの際、勝頼が援軍を派遣できないことを見越し、後詰を送らずに高天神城を見捨てるように周囲に見せつけることで、勝頼の威信と名声の失墜を狙ったと考えられている。このため、家康は岡部の交渉を打ち切った。

天正9年(1581年3月22日に岡部は決死の覚悟で城を包囲する徳川軍に対して打って出て決戦に及んだ。徳川軍は榊原康政本多忠勝鳥居元忠らが迎撃し、激戦となった。この死闘により岡部以下、城兵の大半が徳川軍に討たれ、死者で堀が充満し、730の首級が討ち取られたという(『浜松御在城記』『三河物語』『家忠日記』)。

この乱戦の中で、軍監の横田は徳川軍の指物を拾い、敵味方を欺いて徳川軍の包囲を突破して脱出に成功した。高天神城には「犬戻り・猿戻り」と称される難所があり、そこが抜け道となっていたため、横田はそこから脱出したとされ、横田の通称の名にちなんで「甚五郎抜け道」と呼ばれたという。

高天神城落城後、城内の石牢から大河内正局が救出され、家康は7年間も節を曲げなかった正局の忠節を賞して厚遇した。

家康は落城の翌日、残党を捜索するために山狩りを行なった(『家忠日記』)。高天神城の落城報告を受けた信長は家康に花押を据えた書状を送って労ったと言われる。この時期の信長は天下布武の印判ばかりを用いてほとんど花押を使わなかったので、これは異例の対応であり、信長がいかにこの落城を喜んだかがうかがえる。

高天神城の落城により、武田家家臣団の間では「勝頼に見殺しにされた」という悲報が武田領に広がってしまった。武田家国衆は戦国大名として強大な軍事力を持つ武田家の保護を得て、自分の領国を守ることにある。つまり「軍事的安全保障体制」があるからこそ、国衆は武田家に従っているのである。だが、勝頼が高天神城を見捨てて城兵の多くを見殺しにしたことで、その体制は崩壊して国衆の間に勝頼に対する不信が生まれた。この高天神落城は「高天神崩れ」とも称されて、天正10年(1582年)の武田征伐における武田家滅亡の際、家臣団が一斉に離反する原因となってしまった。

脚注[編集]

  1. 信玄も信長と同盟を結んでいた。

外部リンク[編集]