鉄道高速化の歴史

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鉄道高速化の歴史は、鉄道が高速化を行った経緯と、鉄道の区間ごとの速達化についてまとめる記事。

高速化を行った経緯[編集]

鉄道が登場し、路線を伸ばしていた19世紀は金属工学機械工学土木工学とも発展途上で、蒸気機関車に搭載する巨大なボイラーの製造も長大橋梁、長大隧道の建設ができなかった。なによりその資金がなかった。しかし20世紀に入り、それらの技術の向上と資金の蓄えによって、強力な蒸気機関車によって加速力が得られ、輸送力の隘路になっていた区間は長大橋梁と長大隧道によって区間の短縮と、急曲線、急勾配の緩和によって結果的に鉄道輸送の高速化が実現できた。

太平洋戦争前は、アメリカ合衆国から輸入したC52を参考に製造されたC53によって機関車の出力向上がなされ、東海道本線丹那トンネル[注釈 1]、上越線清水トンネルの建設といった線形改良によって大幅な所要時間の短縮が実現できた。
戦後については、東海道本線と山陽本線以外は立ち遅れていた複線化と鉄道の電化が速度向上の鍵となった。複線化によって交換待ちと、分岐器通過の速度制限を受ける必要がなくなった。これは北陸本線北陸トンネルが大きな山場となった。戦前の電化は煤煙の防止と、石炭の節約が目的であったが、蒸気機関車よりも加速度の優れた電気機関車によって速度が向上した。

新幹線建設で高速化を極めたが、その開業の影で並行在来線第三セクターに移管され、系統分断が行われた。一方で、国鉄分民化後に増加した高速バスとの競争に敗れて廃止された「あやめ」などの列車や、ほくほく線や特急「くろしお」のように所要時間増大の犠牲を伴ったスピードダウンが行われた列車がある。

新幹線開業の裏側で消え去った在来線の功績や血の滲むような努力を決して忘れていはいけない。

高速化が望めない路線[編集]

高速化が望めない路線は地方交通線に多い。ほとんどの車両で最高速度が95km/hの性能なので、問題は土木構造物にある。すなわち、単線で交換可能駅が少なく、交換可能駅の分岐器が減速必至の両開き構造もしくはスプリングポイントであること。地形に逆らわずに、建設費などのイニシャルコストを低減するため、路線に急曲線、急勾配があること、路盤、レールといった線路規格が低いことである。1980年代半ばには、多くの特定地方交通線が廃止や第三セクターへの移管がされていた。
なお、1950年代後半には小田急のSEのように路盤規格の低さを軽量連接車構造でカバーして高速化する試みもされたが、国鉄の低規格路線の高速化において技術承継されなかった。

一方、1964年以降のローカル線は、田中角栄の肝入りで発足した日本鉄道建設公団により主に建設された。これらの路線は予土線江川崎以東のように線形が良く、比較的高速運転しやすい。しかし上山田線三江線気仙沼線の様に、1964年以前の開通区間の線形、国鉄再建法施行以降の狭軌新線建設凍結や自然災害が足枷となって新建設区間の線形の良さを生かせないまま、鉄路が廃線になった所もある。

国鉄分民化後は、四国の土讃線、予讃線や鳥取・島根県下の山陰本線や因美北線で制御付振子気動車が導入されて、国鉄末期より大幅なスピードアップとなったが、同様に高速化が望まれた芸備線は路盤向上で沿線自治体との折り合いがつかず、制御付振子気動車の導入を断念。高山本線は路盤向上や分岐器の一線スルー化はされたものの、貨物列車運行の都合から振子気動車の導入はされなかった。

歴史[編集]

在来線[編集]

世界最高峰の技術を有する日本の鉄道は1872年10月14日新橋驛(現在の汐留駅周辺)から横濱驛(現在の桜木町駅周辺)までの約29Kmが開通したのが始まりである。翌15日には鶴見駅が開業。この開通は日本の陸上交通に大きな影響を与えた。

時は経ち1889年新橋駅から神戸駅間を結ぶ東海道線が全通。その後1891年には上野駅から青森駅間を結ぶ東北本線、1899年両国橋駅(現在の両国駅)から銚子駅を結ぶ総武本線[注釈 2]1905年に常磐線の日暮里駅から岩沼駅を結ぶ常磐線、1911年に東京駅から塩尻駅を経て名古屋駅までを結ぶ中央本線が開通。後の通勤五方面作戦となる路線が開通した。その後も1913年には北陸本線が開通するなど、全国各地で様々な路線が開通する。
戦前、客車特急「つばめ」は余裕時間の切り詰めに成功して、東阪間を8時間で結んだが、戦争中は貨物輸送で酷使され荒廃した。

戦後、東阪間9時間の特急「へいわ」から特急列車運行を再開し、1956年11月の東海道本線全線電化で客車特急「つばめ」は東阪間の所要時間が7時間30分となり戦前の記録を更新した。
並行して電車による高速化が模索され、小田急のSE車を借り受けた試行がされ、1958年11月に日本初の特急型電車151系(当初はモハ20系)が登場。東京 - 神戸間の特急「こだま」は、東阪間で客車特急で7時間30分かかっていたところを6時間30分に短縮。大幅なスピートアップとなった。これにより、戦後直後から運行されていた「つばめ」、「はと」は電車化されることが決まり、電車は「通勤の手段」から「移動の手段」へと変わる[注釈 3]

東北方面は1950年代後半に「キハ80」、1960年代後半に「485系」が登場。「はつかり」や「やまびこ」など様々な特急を運行し、12時間かかっていた客車列車を6時間30分へ大幅に短縮した。

その後、1968年10月には在来線の最高速度が時速120kmに引き上げられ、1973年には381系を使用して自然振子台車による曲線通過速度の向上が行われた。なお、国鉄分民化前の鉄道総合技術研究所の研究では「車両性能上、在来線は時速160kmまで可能だが、運輸省令での踏切等でのブレーキ制動から停止までの距離が600m厳守の現状では時速130kmが限界」としている。

1987年国鉄分民化後は、前記の制動距離の制約を満たしつつ最高時速130kmで運行する列車や曲線区間で非振子電車が本則よりも速度増しで運行する列車が増えはじめ[注釈 4]1988年開業の青函トンネルの在来線で最高時速140km、2002年には北越急行ほくほく線で最高時速160kmと、新幹線以外でも高速化が実現した。加えて、分民化前は速度向上が難しいとされた非電化の在来線で2000系気動車が世界初の制御付き振子気動車運行に成功し、非電化線区の曲線区間の速度向上を成し遂げた。

新幹線[編集]

1964年、「東海道新幹線」が開業し、最高時速210kmの運転を開始した。

1982年には「東北新幹線」が開業。

どんどん時間は短縮された結果、現在、東京から大阪は最速で2時間21分[注釈 5]、東京から青森は最短で2時間58分とどちらも3時間を切っている。

各区間の所要時間の変化[編集]

東京-大阪[編集]

東京 - 大阪(東海道経由)
手段 時間
江戸時代 早飛脚 2日〜3日[注釈 6]
明治時代(1896年) 急行列車(客車) 17時間
戦前(1940年頃) 特急列車(客車) 8時間
1956年 (全線電化) 特別急行列車 青大将 7時間30分
1958年 (電車特急) 特急「こだま」 6時間30分
1964年 新幹線「ひかり」 4時間
1965年 新幹線「ひかり」 3時間10分
2022年 新幹線「のぞみ」 2時間21分

東京-青森[編集]

東京-博多[編集]

  • 1950年代は18時間かけて走っていた。
  • 1975年山陽新幹線博多開業後は6時間56分かかっていた
  • 1980年160キロ制限がなくなったため、6:40で走るようになった。
  • 500系の運用開始後、は、4:49分で走れるようになった。
  • 今時点では4:46で東海道・山陽新幹線を駆け抜けている。

東京-広島[編集]

大阪-鹿児島[編集]

東京-札幌[編集]

大阪-佐世保[編集]

金沢-上野[編集]

札幌-稚内[編集]

注釈[編集]

  1. このトンネルの開業によって旧線は「御殿場線」となる。
  2. 御茶ノ水まで開通したのは1932年。
  3. 以前は、都市近郊と山岳地帯を除きほぼ電化されておらず、「移動の手段」の主力は機関車牽引の客車であった。
  4. 一方で、特急「スーパー雷鳥」等では、高架区間など一部の区間で国に特認を取っていた。
  5. ちなみに神戸市の新幹線駅、新神戸までは3時間30分ほど。
  6. 24時間時速8kmで走り続けて、リレーで手紙を運ぶ場合。人を架籠で運ぶ場合は3〜4日。歩きでは2週間、子供連れの女性であればおそらくそれ以上かかった。1917年4月27日に行われた京都→東京の駅伝では44時間かかった。ただし、これは深夜の箱根で沿道の住民が松明を掲げて選手を支援していたためであり、江戸時代の早飛脚はそれほど早く到着は出来なかったとされている。1701年赤穂事件では早駕籠が江戸から赤穂まで5日間かかった。
  7. 札幌-稚内と変わらない。
  1. 130km運行廃止&空気バネ利用停止のため