赤穂事件

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

討ち入られる吉良邸

赤穂事件(あこうじけん)とは、江戸城松の廊下にて起こった、赤穂藩主の浅野内匠頭が高家旗本の吉良上野介を切り付けた事件、あるいは内匠頭が切腹した出来事、あるいは大石内蔵助が上野介を討ち取り吉良家が取り潰しになった事件の総称である。ただし、歴代の赤穂藩家中において発生した事件との混同を避けるため、池田家において藩主池田輝興が狂乱し正室などを殺した「正保赤穂事件」、森家において尊王攘夷の西川升吉ら一派が佐幕・保守派の家老・森主税と藩儒・村上父子を暗殺するという「文久赤穂事件」[1]と区別をつけて「元禄赤穂事件」とも呼ばれる場合がある[2]

概要[編集]

将軍徳川綱吉の時代。浅野内匠頭は赤穂藩の藩主[注 1]。居城は赤穂城。とても怒りやすく若い殿であった。
1701年に、内匠頭はから勅使、院使を迎えた江戸城松の廊下にて高家の吉良上野介に斬りつけた。内匠頭は、饗応の場を血で汚したとして幕閣より即日切腹のお触れが出され、お家は断絶となった。一方、上野介はお咎め無しだった。江戸から赤穂まで早駕籠が出され、5日間かかって情報がもたらされ、国元では大騒ぎとなった。

筆頭家老の大石内蔵助はお家断絶や内匠頭の片成敗に怒りを感じ、片岡源五右衛門や堀部武庸などの江戸急進派を抑えつつ、内匠頭弟の大学長広を主君とするお家再興嘆願運動を行った。長広が閉門処分になって、お家再興が絶望となると、内蔵助は吉良邸討ち入りを決意した[注 2]1703年1月30日 (元禄15年12月14日) に内蔵助は47人を率いて本所(現在の墨田区)の吉良邸へと討ち入った。

吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させ、小林平八郎・清水一学らと戦いこれを斬り捨てた。最後に物置のような部屋で白小袖の老人を間十次郎が槍で突き、武林唯七が刀で斬り絶命させた。内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた[4]。内蔵助らは吉良の首を取り吉良邸から引き揚げた。

討入後[編集]

赤穂義士のうち吉田忠左衛門と富森助右衛門が大目付仙石伯耆守[5]に出頭し、討ち入った義士は47人中46人[注 3]、大名4家に預けられた。 赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、『赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたから』として、元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。ただ、安場久幸は大石の介錯を失敗している。大石良雄の介錯は複数回行なわれ、安場家(一平久幸の後嗣)に伝わる当事の介錯刀には刃こぼれがあり、前当主で全国義士会連合会の会長を務めた安場保雅は「大石の首骨に何度も当たり、斬り落としに苦労した跡である」と記している[7]
同時に吉良家は当主で上野介の孫の義周が諏訪高島藩預りとなった。高島藩主・諏訪忠虎高島城南丸の屋敷を改装して預かり屋敷にした。忠虎の娘・於栄のが吉良と昵懇な伊達村豊勅使饗応をやり遂げた)[8]だったこともあり、義周は「左兵衛様」と呼ばれ[9]一般の罪人に比べるとかなり優遇された[10]。義周は配所で絵や書を良くしたが、元来病弱であり、しばしば病気になった。3年後に嫡子を残さず逝去した。幕府の石谷清職の検死を受けた後、諏訪の法華寺に埋葬された。三河(旧・吉良町)の花岳寺諏訪大社にも墓があり、義周の手になる書碑も建っている。三河吉良家は取り潰しとなった(のちに義央の弟の家系で再興。これとは別に世田谷蒔田氏が高家吉良)。

遺児の処分[編集]

赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は伊豆大島遠島、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って遠島という処分が幕府から下された[11]。(女子は構いなし[11])。

15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられた。金子と糧米も尽き果て、蓆を打ち蓬を編んで鹹風蜑雨と闘ったが、間瀬貞八は痩死している[12]。現地で没した間瀬惣八は罪人墓地に埋葬されており、越後騒動の逆意方(悪役)の小栗兄弟と並葬されている[13]

残りの3人は宝永3年に赦免された。他の遺児たちも綱吉が死去した宝永6年に大赦とされた[14]

本土に戻った遺児たちは仕官することなく、仏門に入った(吉田はのち還俗して浪人)。また内蔵助の三男の大三郎は父と同じ禄高で赤穂浅野家の本家の広島藩家老となった。1889年、最後の当主・多久造の死去を以て断絶[15]

内匠頭の弟の大学長広は、家宣期に旗本として房州に領地を与えられ、お家再興を果たした。1986年、最後の当主・長楽の死去を以て断絶。

吉良家も断絶のままだったが、傍流で蒔田姓だった義俊が吉良姓となって高家に就き、大学長広と同年にお家が再興した。加えて、義央の弟の義叔が分家した東条家の3代目義孚も吉良に復姓した。

日本史研究・後史[編集]

当時在位した東山天皇は、浅野内匠頭が上野介に斬付けたことにより自身が派遣した勅使の饗応を放棄したこと、そして即日切腹になったことを知り、「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」との記述を近衛基煕が記録している。高野保春も「心中、歓悦している」と述べたことなどが書かれている[16]正親町公通も東山天皇が長矩の切腹処分につき幕府の迅速な対応を喜ばれたと記している[17]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 浅野幸長の弟の長重の曾孫。
  2. 直前まで、大石の直臣だった瀬尾孫左衛門が同盟に加わっていたが、討ち入り前の12月12日に脱盟逃亡した。このため瀬尾は四十七士に数えない[3]
  3. 寺坂吉右衛門だけどこかに逃げ、消息不明となった[6]。なお、寺坂については、軽輩の地位を利用して、瑤泉院など関係者に経緯を伝令したとの説がある。
出典
  1. 赤穂城・文久赤穂事件顕彰碑跡(現地「二ノ丸門案板」)
  2. 歴史群像シリーズ57巻『元禄赤穂事件』(学習研究社)など
  3. 赤穂市総務部市史編さん室『忠臣蔵第一巻~第七巻』兵庫県赤穂市
  4. 山本 2012a, §6.3.
  5. 山本 2013, pp. 166-167.
  6. [1]
  7. 「赤穂民報」2019年12月13日
  8. 「左京亮様、勅使様饗応の儀、御首尾能く勤められた旨」(『宗贇公御代記録書抜』)
  9. 「一、左兵衛様が、爪を切る時、鋏を使う時は、利兵衛、猶右衛門、八左衛門、八郎兵衛(いずれも藩士の名前)の一人以上が付き添うこと。」(諏訪家文書『諏訪家御用狀留帳』)
  10. 細野正夫・今井広亀著『中洲村史』高島藩日記より「吉良義周」の項
  11. a b 山本(2013) p197
  12. 福本日南(中央義士会の設立者)『元禄快挙録』
  13. 『大島町史』「伊豆国大島差出帳」
  14. 山本(2013) p202
  15. 泉岳寺 鎌田豊治「大石家の墓」(「忠臣蔵史蹟辞典」2008年、中央義士会)
  16. 『応円満院基煕公記』百五十二(元禄十四年自正月至三月)宮内庁書陵部 (収蔵)
  17. 『正親町公通卿雜話』45p(東京大学・文学部宗教学研究室)
  18. 素行は赤穂事件より前に死去している。
  19. 「人事興信録45版」ひ24