キリスト教

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キリスト教の教祖ナザレのイエス
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キリスト教(キリストきょう)は、イエス・キリストを救世主とする宗教

概要[編集]

現在、広いくくりでみたキリスト教の信者の数は世界で一番多い。

宗派[編集]

西方教会[編集]

西ローマ帝国フランク王国および後継国家の影響下の地域に主に広まった。

東方教会[編集]

東ローマ帝国の影響が強い地域に主に広まった。

その他[編集]

  • 耶蘇教
    • 三位一体説を教義に含めない。(ユニタリアン)
    • 「救われる者」と「救われない者」に区分することをしない。(ユニバーサリスト)

が特徴である。ネストリウス派は三位一体説を教義に含めないので、ここに分類されるかもしれない。325年のアレクサンドリア公会議において「異端第一号」とされたため、「キリスト教」とは呼びづらく、「人間としてのナザレのイエス」を研究することを目標とするため、「宗教」といえるかどうかもわからない。
「ユニタリアン - ユニバーサリスト」は(自称することはめったにないが)それなりに多く、『かもめのジョナサン』のリチャード・バック(『イリュージョン』という作品がある)、『クレイマー:クレイマー』のエイブリー・コーマン(『オー・ゴッド!』)などもあり、ビアトリクス・ポターの『ピーターラビット』に至っては受難劇のパロディあるいはオマージュである。日本では筒井康隆の『ジーザス・クライスト・トリックスター』がある。諸星大二郎の『生命の木』や、中村光『聖☆おにいさん』も視野に入れてもいいかもしれない。

歴史[編集]

前史[編集]

マカバイ戦争を経て自らの独立国家バビロン捕囚以来数百年ぶりに手に入れたユダヤ人であったが、教義の違いなどを巡り

の3派に分裂してしまう。一方でこのような争いの結果ユダヤ教が民衆の心から徐々に離れてゆき、そのことを批判する洗礼者ヨハネのような人物も現れる事になった。

原始教団の成立[編集]

そんな中ガラリア地方にイエス・キリストが現れる。彼は従来のユダヤ教を批判しつつ自らの教えを民衆に説いて行く[1]。彼はその影響を恐れたユダヤ人聖職者らにより有罪を宣告され、十字架に架けられ殺害される事になるが、彼の教えはやがて弟子たちによって広められて行く事になる。

ユダヤ教との分離[編集]

当初はあくまでユダヤ教の一派として出発したキリスト教であったが、教義の違いなどを巡り次第に対立して行く事になる。また当初からの(つまりユダヤ系の)信者が弾圧を受けて殉教するなどの結果、次第にユダヤ色が薄れて行く事になる。やがてエルサレム神殿の破壊以降ユダヤ教の主流派となったパリサイ派がキリスト教の聖典である七十人訳聖書を外典と認定した結果、キリスト教はユダヤ教と完全に袂をわかつ事になった。

拡大と弾圧[編集]

その後聖パウロなどの布教の結果、信者数は次第に増大し、3世紀末には当時のローマ帝国の人口の約4割がキリスト教徒だったとも言われ、教えは周辺のアルメニア王国ペルシャ帝国などにも広がって行く事になる。しかしその勢力を恐れたローマ皇帝による弾圧は地域的な物も含めて増加して行き、またその結果による異端の出現などが問題になって行く。

弾圧の終焉[編集]

他国に比べキリスト教徒の人口に占める割合が特に多かったアルメニア王国では国王ティリダテス3世が弾圧しようと試みるも、最終的に301年聖グレゴリウスの働きによってキリスト教が公認され、世界で初めてのキリスト教国家が誕生する。その後ローマ帝国では303年に皇帝ディオクレティアヌスがかつて無い規模の弾圧に乗り出すも、信者数は一向に減らず、遂に後継者のガレリウス311年、寛容令を布告し、2年後にはミラノ勅令が出されローマ帝国におけるキリスト教弾圧が終焉を迎える。

宗教改革[編集]

宗教改革が起きたことで16世紀にカトリック教会から独立した宗派プロテスタントが派生。この宗教改革は、フランスやイギリスなどのヨーロッパにおいて政教分離という考え方が広まるきっかけとなった。

神父と牧師[編集]

神父とは、カトリック(東方教会を含む)の司祭をいう。牧師は「羊飼い」を意味し、カトリックに対すプロテスタントにおける用語であり、「万人司祭説」に基づくとされる。 カトリック(普遍)とプロテスタント(抗議)の間で喧嘩が起きたため、ギリシャ正教の司祭であったサンタクロース(聖ニコラウス)が追放されてしまったため、「もうサンタクロースは来ないんだよ」と告げられた子供たちを救うため、「幼児(おさなご)殉教者」(先代のヘロデ王によって殺されたというデマゴーグがある)に変わって「幼子キリスト」(クリストキント)がプレゼントを届けにくるようになったが、現在のクリストキントは「金のティアラをつけて白いドレスをまとった若い女の子」であって、イエス・キリストとは人物像とは一致しない。よって赤ずきんは「受難のキリスト」を下敷きにした「赤い衣と(茨の冠になぞらえた)赤いカプチン」「羊飼いの杖」「狼(ローマ帝国に通ずる)除けのランプ(燈明)」が赤ずきんの祖形であるという説もある。

カトリック教会[編集]

現在にいたるまでカトリック教会において、司祭の結婚は認められていない。司祭による性事件が勃発するなどしていることもあって、この制度の批判がある。また、避妊、妊娠中絶、同性愛、離婚を認めていないことも批判の対象になっている。

日本とキリスト教[編集]

戦国時代[編集]

フランシスコ・ザビエルなどによって、カトリックが伝来される。

安土桃山時代[編集]

織田信長はキリスト教に対して寛容的であったが、豊臣秀吉の時代に迫害方向に傾き、バテレン追放令が出された。なお当時、プロテスタントは布教に熱心でなく、国内で広まったのはカトリックであった。

江戸時代[編集]

徳川家康はキリスト教を禁止していたが、貿易による利益のため当初は黙認していた。しかし、その後禁止を徹底し、徳川家光の時代にさらに厳しくなり、司教は日本にこなくなる。島原の乱をキリスト教徒による反乱だと決めつけた徳川幕府鎖国をし、ポルトガル人を追放した。踏み絵を行い、キリスト教徒に対する迫害が行われたが、信者は地下に潜伏し、隠れキリシタンとして存続した。

明治維新[編集]

明治維新によってキリスト教徒を名乗り出た信徒が出ても、当初は従来と同じようにキリスト教徒を弾圧。しかし、ヨーロッパ諸国からの強い抗議を受けたことで方針を転換して、キリスト教を認めることとなり、大日本帝国憲法信教の自由が認められた。かつてのカトリックに加え、主にイギリス人・アメリカ人宣教師によりプロテスタントが日本にもたらされた。キリスト教系の学校も多数設立されたが、カトリック、プロテスタントの両方がみられる。

第二次世界大戦[編集]

1930年代に入ると、思想統制によってキリスト教が弾圧される。1941年にはプロテスタントの諸教会が日本基督教団を組織はしたものの、監視の目はひどかった。

第二次世界大戦後[編集]

第二次世界大戦が終わると、思想の自由が認められる。これによって、様々なキリスト教の団体が生まれて普及していく。

現在、日本のキリスト教徒は120万人程度と推定されているが、この数字にはキリスト教系のカルト集団の信者がか多数含まれているに違いない。また、どの教派をカルトと見なすかに付いても見解はわかれる。

教派によって信徒数の数え方はまちまちである。ほぼ毎週礼拝に出席している教会員だけを信徒としてカウントしている教会。教会に来なくなってしまった消息不明の教会員も信徒としてカウントしている教会。礼拝に一度でも出席した者は信徒としてカウントしてしまう教会。引っ越して遠い町の教会に行っている者が、双方の教会から二重にカウントされている場合もあると思われる。70年前に洗礼を受けた消息不明の者を信徒としてカウントしている教会などもあるからである。牧師と喧嘩するなどして教会から距離を置いているクリスチャンも少なくないに違いない。

カルトでも特定の宗教団体のように、信徒数を極端に水増しているグループがある一方、エホ証のように信徒を伝道者研究生に区別し、伝道者だけをカウントするグループは信徒数を過少に公表しているのである。

日本のキリスト教系学校[編集]

カトリック[編集]

プロテスタント[編集]

キリスト教の見分け方[編集]

エホ症の考えるキリスト者と真言宗やUUの考えるナザレのイエス像とはかなりの隔たりがあるので、以下は複数の意見が混在している。

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。 — ヨハネによる福音書(口語訳)13章34節と35節


  • 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 — ヨハネによる福音書(口語訳)15章13節

パウロは愛の定義を以下のように綴った。

愛は寛容であり、愛は情(なさけ)深い。また、妬むことをしない[2]。「愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、苛立たない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。」 — コリント人への第一の手紙(口語訳)13章4節から8節

とかいった言説があり、「戦争などで他人の命を奪っているようではイエス・キリストに倣っているとは言えないので、十字軍などはキリスト教ではないと判断される」を守らないといけないはずだが、このあたりはWiki記述においてはどうかな?という話もある。

  • クリスマス聖書に基いた祝いではなく起源は別(「冬至」であるとされる)なため、クリスマスを祝うのも「キリスト教」ではないと判断される。それを考えると、冬至に南瓜を食べたり柚子湯に入ったりするのも「エホバではないからサタンだ」というエホ症の主張もある。

こういったややこしさがあるため、批判的な立場として空飛ぶスパゲッティ・モンスター教やUUや一人一寺一仏派などが生まれた。

備考[編集]

  • 聖書中では神と人間の仲保者、つまり仲介者(「とりなしの聖者」。聖ヨハネや聖母まりあなども、ここに括られる)がイエスとなっているため、「イエスは神ではない」と読める[3]。しかし、「神とキリストと聖霊は同一の存在である」という解釈が三位一体説)が「伝統的な聖書解釈」とされ、それに異義を唱えたネストリウス派は公会議で異端とされた。現在では「サンタクロース」として知られる聖ニコラウスも、この会議の出席者であったとか。
  • キリスト教は「予定説」や「セカンドチャンス」などの後付けの理論があり、キリスト教の各派閥間において一致していない面がある。一致していないがゆえに各宗派に別れているわけで、「各宗派に分かれている理由は一致できない理由があるから」と考えられる。

脚注[編集]

  1. この時点でイエス自身が新しい宗教を創始しようとしていた訳では無い事に注意。
  2. つーても「エホバは妬む神である」とするプロテスタント系の宗派もあり、他派や他宗に対してはイントレランスである。「寛容主義者は不寛容主義者に対して寛容であるべきか?」という話もある。
  3. テモテへの第一の手紙(口語訳)2章5節”. ウィキソース (2018年3月8日). 2018年11月13日確認。

関連項目[編集]