ペルー

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国旗

ペルー共和国(ペルーきょうわこく、PeruPE))とは、南米大陸の西部に位置する国家である。政体は共和制。国土面積は128万5000平方キロ(日本の約3.4倍)。人口2011年の時点で2924万9000人。人口密度は22.8人/㎢。首都リマ。国名の由来は1522年スペイン人が初めて到達した際に、Piruと呼ばれる河口で原住民に迎えられたことから、その地域一帯をピル、あるいはビルと呼ぶようになったという説が有力視されている。ピルの語義はインディオの言葉で「」あるいは「」を意味する。

概要[編集]

歴史[編集]

かつてはインカ帝国をはじめとする偉大なアンデス文明が栄えた土地として知られている。

紀元前からこの地はチャビンナスカなどの古代文明が栄えていたが、12世紀になるとクスコを中心としたインカ帝国が成立して大いに繁栄した。しかし、1522年にスペイン人にこの地が発見されると征服事業が推し進められ、1533年フランシスコ・ピサロによる卑劣な征服が行われてインカ帝国はあっけなく崩壊した。以後、3世紀にわたって南米はスペインの支配下に入り、ペルーはその中でも南米スペイン領全体を統括するペルー副王領の中心となった。

1821年7月28日、スペインからの独立を宣言し、3年後の1824年に完全独立を果たした。1883年硝石の開発権をめぐる太平洋戦争でボリビアと共同してチリと戦うが敗戦し、これによりアリカ地方を失陥している。また、独立後のこの国は44の家族による寡頭支配が行われて、その実態はスペイン支配の時とそこまで変わるものではなかった。1968年、軍事クーデターが発生して一気に社会構造の変革が実施されたが、急進的な改革路線が推し進められて問題にもなった。1980年、12年ぶりに民政復帰を果たした。

1985年アラン・ガルシア政権が成立すると、農業の不振や対外債務の膨張、加えて汚職の蔓延などでペルー経済が破綻してしまう。しかもこの国ではそれより前の1970年代から勢力を拡大していた極左ゲリラ・「センデロ・ルミノソ」(「輝く道」を意味する)の無差別テロ攻撃も行なわれて、経済不振、社会不安の増大で国家政治は停滞した。1990年の大統領選で日系人アルベルト・フジモリが勝利すると、フジモリは強権的な政治を展開して強引にインフレの鎮静化、テロ組織の封じ込めや弾圧を実施し、これらは一応成功した。ところが、1996年に反体制ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動」(MRTA)によるペルー日本大使館公邸人質事件が発生し、これによりそれまで強権的に押さえつけていた社会や治安の問題が再び表面化。2000年にはフジモリも不正蓄財の疑惑を受けて大統領職を罷免された。

2011年6月の大統領選挙では、中道左派のオジャンタ・ウマラが当選した。

地理[編集]

乾燥した太平洋沿岸部、アンデス山脈が縦走する中部、熱帯雨林が繁茂するアマゾン流域の東部にペルーはそれぞれ大別される。沖合にはペルー寒流が流れているが、この水域の海水温度は定期的に上昇するエルニーニョ現象で世界的にも知られている。

山岳部は高山気候、北東部のアマゾン川流域は熱帯雨林気候の特色を示し、沿岸部は温暖であるが夏季に「ガルア」と呼ばれる霧雨が降りやすい。

首都・リマの年平均気温は19.3度で、最高気温2月の22.7度、最低気温8月の16.6度であり、年間降水量は3ミリである。

かつてインカ帝国が繁栄したことから、現在でもインディオの人口比率は南米一である。

インカの王都だったクスコ、空中都市といわれるマチュピチュ、謎の地上絵で有名なナスカなど全土に遺跡が点在し、堅笛ケーナを使う哀愁帯びた民族音楽のフォルクローレ、リャマ、アルパカの毛を材料とした毛織物、かぶり毛布のポンチョ、太陽の大祭といわれるインティライミなど、濃密で重層的なインカ・インディオの文化に随所で触れることが現在でもできる。

経済[編集]

主要産業は鉱業と漁業で、食糧の大半は輸入に依存している。鉱物資源に関しては豊富で、銅が世界第3位、鉛が同4位、亜鉛が同2位、銀が同1位、金が同5位、鈴が同4位、アンチモンが同9位と産出量も種類も豊富である。

漁獲量はアンチョビ(カタクチイワシ)を中心にしており、これは中国に次いで世界2位を記録している。

アンデス地方はジャガイモトマトの原産地である。ただし、この国は治安が非常に悪い。その理由はコカの葉の一大生産地で、年間11万9000トン(2009年の統計)を記録し、これはコロンビアを抜いて世界一である。こうした麻薬の密売と貧富の差の大きい所得構造の矛盾が結びついて社会不安を増幅させており、結果的に武装ゲリラの出現する温床と化しているのがペルー経済の弱点でもある。1990年代半ばにフジモリ大統領の弾圧などで一時的にゲリラ組織も弱遺体化はして凶悪犯罪もあくまで周辺諸国と比較すれば相対的に少なくなっているものの、窃盗などの犯罪は依然として極端に多い。統計によると「人口10万人当たりの窃盗の発生件数は約380件」である。

日本との関係[編集]

明治時代1873年、日本は中南米諸国で最初に外交関係を結んだのがペルーである。そしてブラジルより一足早く1899年から日本人移民の入植も開始され、2011年時点では約8万8000人の日系人が居住しているという。なお、ペルー人は他の中南米諸国に比べると一般的に内向的で物静かな国民性とされている。

宗教[編集]

住民[編集]

  • インディオ(ケチュア族、アイマラ族)が45パーセント。
  • メスティソ白人とインディオの混血)が37パーセント。
  • ヨーロッパ系白人が15パーセント。
  • その他(アジア系、黒人など)が3パーセント(うち日系人は約10万人、主として九州・沖縄から)

言語[編集]

通貨単位[編集]

国内総生産[編集]

  • 1人当たり国内総生産は5172米ドル(2010年

外部リンク[編集]

関連項目[編集]