遠藤保仁
選手情報 | |
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本名 | 遠藤保仁 |
英字表記 | Yasuhito Endo |
生年月日 | 1980年1月28日(44歳) |
出身地 | 日本、鹿児島県 |
身長 | 178 cm |
体重 | 75 kg |
ポジション | ミッドフィールダー |
クラブ情報 | |
所属クラブ | ジュビロ磐田 |
背番号 | 50 |
クラブチーム | |
1998 1999-2000 2001-2020 2020- |
横浜フリューゲルス 京都パープルサンガ ガンバ大阪 ジュビロ磐田 |
代表チーム | |
2002-2015 | 日本 |
遠藤 保仁(えんどう やすひと、1980年1月28日 - )は日本のサッカー選手。愛称は 「ヤット」 。
来歴[編集]
地元では有名な「桜島の遠藤三兄弟」の末っ子。次兄は横浜F・マリノス・ヴィッセル神戸に所属した遠藤彰弘である。
名門・鹿児島実業高校卒業後、1998年に横浜フリューゲルスに入団するが、同年限りでクラブが消滅。1999年、京都パープルサンガに移籍する。2001年、京都がJ2に降格したため、ガンバ大阪へ移籍。以降、チームの中心選手として活躍している。ガンバ移籍時(当時20歳)の移籍金は1億5000万円(1億2000万円、1億8000万円説あり)と言われている。
全盛期では非常に完成度の高いボランチとされるも、サッカー選手としてのピークを過ぎた現在、ポスト遠藤待望論が日本サッカー界では巻き起こっている。
2020年7月4日、J1リーグ第2節・vsセレッソ大阪戦でJ1通算632試合出場を達成。楢﨑正剛の631試合を抜き、歴代トップとなった。しかしそれ以降は出場機会がなく、ベンチ入りすらも果たせない状況にいた。その中で出場機会を求めるべく、同年10月5日にジュビロ磐田に期限付き移籍することとなった。自身にとっては2013年以来となるJ2でのプレーとなった。
人物・エピソード[編集]
- スピードを生かしたプレーや突破は得意ではないが、その代わりに距離があってもしっかりとゴールマウスをとらえられるミドルシュートを持つため得点力もある。また、テクニックタイプの割にはボディーコンタクトが強くボールを失いにくい。
- 一般のサッカーファンからは、プレイの質が派手でない上にポジショニングの良さなど評価されにくいプレイが多いため、どうしても批判の的になりやすいが、サッカーに関わっている人物からの評価は高い傾向にある。とりわけ日本代表で共にプレーした選手からの評価が高く、長谷部誠は「「ヤットさんは本物の存在感がある選手」、内田篤人は「サッカーの人すげえなって思うのはヤットさん(遠藤)。パス練習とかするんですけど、難しいボールとかがきて、なにげなくパッと止めて。ピタッて。俺とか、清武(弘嗣)とかがそれを見て、笑っちゃうんですよね。“うまぁ”って」と述べている。又、李忠成は初めて代表に呼ばれて驚いたこととして「ヤットさんが上手すぎる」「正確すぎるほど正確」と取材で述べている。
- 2007年6月1日、モンテネグロ戦(キリンカップ2007)で自身初の主将を務めた。これに関してはウォーミングアップ中にイビチャ・オシム監督に阿部勇樹と共に呼ばれ「どちらかがキャプテンマークをつけなさい」と言われ即答で申し出たという。また、この試合で中澤佑二の得点をアシストしている。
- FIFAワールドカップ-2010グループリーグ初戦のカメルーン戦は、標高1700メートルを越える高地ヨハネスブルグという酸素も薄く慣れない環境の中での試合であったが、日本代表の中で1番長い距離を走り切りフル出場を果たしている[1]。岡田監督の下ではボランチとして使われることが多かったが、この試合ではトップ下として出場。W杯直前に変更されたチーム戦術にも完全に適応しており、決勝点をアシストした松井大輔へ鋭いパスを通すなど攻撃の起点となるとともに、前線からの守備で要所でパスカットをするなど、勝利に大きく貢献した。
- この大会の公式ボール”ジャブラニ”は、当時世界的に流行っていた無回転シュート向けに特化した性質を持っていた。そのため、カーブ系の曲げる直接フリーキックを得意とするリオネル・メッシ、アンドレア・ピルロといった名選手たちは皆揃って悪戦苦闘する。そんな中で、ボールを曲げる直接FKでゴールを決めたのは遠藤ただ一人であった。尚、W杯で1試合2本のフリーキック成功は44年ぶりである[2]。
- 超低速のコロコロPKが持ち味のひとつ。一見楽に止められそうに見えるが、遠藤の助走はボールに近づくにつれて減速するため、大抵のGKは我慢できずにどちらかに飛んでしまう。プロになってから公式戦でPKを失敗したのは5回[3](2010年2月27日現在)で、それ以外ほとんどのPKを決めてきたことから、「PK職人」と言われている。2010年シーズン終了時点で、J1では現役最多の22得点(歴代最多得点は福田正博の27得点、成功率約7割)を決めており、リーグ戦での失敗は2回のみで成功率9割以上である。加えて、2008年のFIFAクラブワールドカップ準決勝のマンチェスター・ユナイテッドとの対戦では、コロコロPKで元オランダ代表のエドウィン・ファン・デル・サールからゴールを奪い、2010年のFIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でも1人目を任され、成功させた(ただし、この時はジャブラニがコロコロPKに合わないという理由で鋭く蹴った)など、代表での試合を含め国際大会においては未だに失敗をしたことがない。本人はかつてインタビューで「強く蹴れないのか?」「普通に蹴れないのか?」という質問に対し、「自然に身についたものなので」「あれ(コロコロPKのこと)が普通なので」と語っていた。しかし最近ではキーパーの動きを見てから蹴る動作は変わらないものの強いシュートを蹴り、ゴールネットを豪快に揺らす強烈なPKも見られるようになった。
- 2010年6月の情熱大陸で取り上げられた際、ハーフタイム中に必ずシャワーを浴びることが紹介された。ロッカールームでの着替えシーンでは監督の指示をあまり聞いていないように見えたが本人は「ちゃんと聞いている」と語った。2010年のワールドカップのハーフタイムでもシャワーを浴びたという。
- 2011年11月3日第31節、ガンバ大阪対鹿島アントラーズの試合で、遠藤がまだ倒れているキム・スンヨンにパスを出したシーンがYouTubeで「ドSヤット」としてアップロードされ話題となった。
- 2012年1月20日にNHK BS1で特集された特別番組『ドーハは悲劇だったのか~日本サッカー あの日からの18年~』において、元日本代表監督のハンス・オフトは今一番会いたい選手として遠藤を指名し、対談する。その席上にて「遠藤の素晴らしさを日本で理解している人はまだまだ少ない。君は選手として全ての才能を持つ。状況判断、技術、メンタル。全てだ」と賞賛した。また別の日にインタビュアーから「日本サッカーは何処を目指すべきか?W杯ベスト4か?それとも優勝か?」と問われ、「まずは日本は世界のベスト10を目標にするべき。それは遠藤のような選手を11人そろえれば必ずなれる」と、ここでも遠藤を賞賛していた。遠藤は「ここまで評価して頂いているとは思わなかった。監督をして欲しいくらい」と、喜びを表現していた。
- 容姿が似ているため「ガチャピン」という愛称を持ち、スタジアムでガチャピンのイラストや人形を掲げて応援するサポーターも多い。2005年9月24日放送のフジテレビ「ポンキッキーズ」に出演した際、本物のガチャピンと共演し、「僕に似てるって言われるでしょ」と質問をされ、「昔は良く似てるって言われてました」と答えた。2010年には所属するガンバ大阪やフジテレビKIDSで、遠藤とガチャピンのコラボグッズが発売された。さらには2018年のエイプリルフールで、クラブ公式ホームページで遠藤の画像が1日だけガチャピンの画像に差し替えられた。
- 岡田彰布とも顔がそっくり。
- 夫人は高校時代の同級生で[4]、3人の子供(娘2人、息子1人)がいる[5]。
- 性格はマイペースでおっとりしている。中村俊輔いわく「プレッシャーをかけてもゆっくり」とのこと。本人は「緊張はしないし、慌てたりすることもない。ストレスは感じない方。人の話をあまり聞いてないところが欠点」と自己分析している。
- 2007年、自身初となる写真集を発売。クラブのバンディエラ・宮本恒靖の退団後は名実ともにガンバ大阪の顔となっている。
- 愛称の 「ヤット」 から、毎年8月10日を 「ヤットの日」 としている。
欧州移籍論[編集]
遠藤保仁は、黄金世代のメンバーだが小野伸二や稲本潤一、高原直泰が20代前半で欧州の舞台を経験。さらには中田浩二や小笠原満男らが続いた。欧州挑戦を横目に見ながら、遠藤は一度たりともJリーグから飛び出さなかった。以下、本人のコメント「う~ん、ポルトガルやオランダ、スペインとかならお金が良くなくても行きたいって話はしてたけど、オファーがなかったのかな。やっぱりドイツ(ワールドカップ)で出れなかったのが大きかった。2010年のワールドカップ後に良い話はもらったけど、そのときは正直、イタリアには興味がなかったし、ガンバで不満もなかったからね。」
クラブチームの統計[編集]
年度 | リーグ | 番 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 |
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横浜F | リーグ | Jリーグ杯 | ||||
1998 | J | 27 | 16 | 1 | 4 | 0 |
通算 | 16 | 1 | 4 | 0 | ||
京都 | リーグ | Jリーグ杯 | ||||
1999 | J1 | 14 | 24 | 4 | 2 | 0 |
2000 | 14 | 29 | 5 | 6 | 1 | |
通算 | 53 | 9 | 8 | 1 | ||
G大阪 | リーグ | Jリーグ杯 | ||||
2001 | J1 | 19 | 29 | 4 | 4 | 0 |
2002 | 30 | 30 | 5 | 8 | 1 | |
2003 | 7 | 30 | 4 | 6 | 0 | |
2004 | 7 | 29 | 9 | 0 | 0 | |
2005 | 7 | 33 | 10 | 4 | 0 | |
2006 | 7 | 25 | 9 | 0 | 0 | |
2007 | 7 | 34 | 8 | 8 | 1 | |
2008 | 7 | 27 | 6 | 1 | 0 | |
2009 | 7 | 32 | 10 | 2 | 0 | |
2010 | 7 | 30 | 3 | 0 | 0 | |
2011 | 7 | 33 | 4 | 0 | 0 | |
2012 | 7 | 34 | 5 | 2 | 0 | |
2013 | J2 | 7 | 33 | 5 | - | |
2014 | J1 | 7 | 34 | 6 | 6 | 0 |
2015 | 7 | 34 | 5 | 3 | 1 | |
2016 | 7 | 34 | 2 | 3 | 1 | |
2017 | 7 | 31 | 1 | 4 | 0 | |
2018 | 7 | 34 | 1 | 6 | 0 | |
2019 | 7 | 28 | 1 | 5 | 0 | |
2020 | 7 | 11 | 0 | 2 | 0 | |
通算 | 605 | 98 | 64 | 4 | ||
磐田 | リーグ | Jリーグ杯 | ||||
2020 | J2 | 50 | 15 | 2 | - | |
2021 | 50 | 35 | 3 | - | ||
通算 | 50 | 5 | 0 | 0 | ||
総通算 | 724 | 113 | 76 | 5 |
表彰[編集]
- 最優秀選手賞 (2014年)
代表チームの統計[編集]
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 試合 | 得点 |
2002 | 1 | 0 |
2003 | 11 | 1 |
2004 | 16 | 2 |
2005 | 8 | 0 |
2006 | 8 | 0 |
2007 | 13 | 1 |
2008 | 16 | 3 |
2009 | 12 | 0 |
2010 | 15 | 2 |
2011 | 13 | 0 |
2012 | 11 | 1 |
2013 | 16 | 2 |
2014 | 8 | 2 |
2015 | 4 | 1 |
通算 | 152 | 15 |
出典[編集]
- ↑ “平均7.8キロ、日本「走り勝ち」/W杯”. 産経 スポーツ (2010年6月15日). 2010年6月14日確認。
- ↑ 本田は無回転、遠藤は高速回転…日本のFK分析読売新聞、2010年6月26日
- ↑ 5回のうち、2回は立石智紀によって防がれている。そのほかは徳重健太、川島永嗣、曽ヶ端準相手に1回ずつ失敗している。ただし曽ヶ端の時は枠を外したものによる。
- ↑ 遠藤保仁選手インタビュー 奥様GAMBA TV〜青と黒〜 インタビュー
- ↑ 遠藤保仁(プロサッカー選手) 毎日放送 情熱大陸、2010年6月6日放送
外部リンク[編集]
J1リーグMVP |