ドラガン・ストイコビッチ

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サッカーボール.jpg ドラガン・ストイコビッチ
選手情報
本名 ドラガン・ストイコビッチ
英字表記 Dragan Stojkovic
生年月日 1965年3月3日(59歳)
出身地 セルビア
身長 175 cm
体重 73 kg
ポジション フォワード
クラブチーム
1994-2001 名古屋グランパスエイト
代表チーム
1983-1992
1994-2001
ユーゴスラビア
セルビア
監督チーム
2008-2013 名古屋グランパス
サッカーボール.jpg
57
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ドラガン・ストイコビッチ(Dragan Stojkovic、1965年3月3日 - )はセルビアサッカー選手、監督。愛称はピクシー

人物・プレースタイル[編集]

プレースタイル[編集]

ゲームメーカー(攻撃的ミッドフィールダー)やフォワードをその役割とし、キレ味鋭いドリブル・ボールコントロール・パスセンス・フリーキック・体の使い方などヘディングを除くサッカーに必要なほとんどの要素で高レベルのプレーを見せる。ユーゴスラビア代表においては周囲からの絶大な信頼を受けた。

リフティングドリブルやヒールキックなどの印象が強く、曲芸師のようなイメージを抱かれがちだが、プレースタイルはシンプル。視野が広く効果的なプレーを選択できるため、ボールを滅多に失わない。

キックの精度は極めて高く、種類も多彩。受ける相手が次のプレーをするために最適な柔らかいパスを繰り出す。繊細なコントロールができ、とくにロングパスは高い成功率で多くのチャンスを演出した。

スピードの緩急をいかしたドリブルで、相手の重心をわずかに崩して抜き去るのを得意とする。とくにサイドからセンタリングと見せかけての切り返しを得意としている。右足でも左足でも切り返しの精度が変わらないのも特徴。

一方で反則数が多く、イエローカードやレッドカードをもらうことも多かった。

10番へのこだわり[編集]

代表では当初、もう一つのエースナンバーである7番を着けていたが、1980年代後半途中(90年W杯欧州予選のアウェーフランス戦で代表10番デビュー)から2001年に引退するまで、サッカーにおけるエースナンバーである背番号10を背負いキャプテン(初キャプテンは89年の親善試合のギリシャ戦)を務めた。

周囲からの信頼を物語るものとして、1990年代に隆盛を極めたイタリアACミランで、かのR・バッジョにすら背番号10を譲らなかったジェニオ(天才)サビチェビッチもユーゴスラビア代表では友人ストイコビッチに対し、栄えある背番号10を譲っていたというエピソードもある。

クラブのレッドスターでは1988-89~1989-90シーズンに同じくユーゴスラビアを代表するトップテクニシャンのサビチェビッチ、プロシネツキと共にプレーし、それぞれの個性を損なうことなく見事に共存。ユーゴリーグでは圧倒的な強さと美しいパフォーマンスを見せた(レッドスターでも10番とキャプテンマークを着けたシンボリックな存在だった)。ちなみにこの3者は時期は異なるが、後にそれぞれが所属した当時西側の代表的なビッグクラブでも10番を着けたことでも有名である(ストイコビッチはオリンピック・マルセイユで。プロシネツキはレアル・マドリードで。そしてサビチェビッチはACミランで)。国名がユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)に変わってからも、当時レアル・マドリードのエースで新ユーゴ代表のエースストライカーでもあったミヤトヴィッチは、名古屋グランパスの10番ストイコビッチに代表でのエースナンバーを譲っている。

ストイコビッチ自身も10番に強いこだわりを持っており、1996年Jリーグオールスターサッカーでは、この試合を最後にパリ・サンジェルマンへの移籍が決まっていたレオナルド(当時鹿島アントラーズで10番を主につけていた)に10番を譲らなかった(この試合でレオナルドは9番をつけた)。

ちなみに来日当初のストイコビッチはなかなか10番をつけることができなかった。これは当時のJリーグが背番号固定制を導入しておらず、1番から11番がスタメン、12番から16番が控えの番号(ただし1番と16番はゴールキーパー)と決まっていたためで、途中出場の多かったストイコビッチは14番、またスタメンで出場してもゲーリー・リネカーが出場する時はリネカーに10番を明け渡し、8番で出場していた。なおストイコビッチ自身は「私が名古屋に来たのはリネカーがいると言うこともあってだったし、彼なら譲ってもいいかと思っていた」そうである。

2008年名古屋グランパスの監督就任当初、チームの練習時に当時10番を付けていた藤田俊哉の練習着やコートを度々間違えて着てしまったことから(通常、Jリーグ監督には「50番」のついた練習着が用意される)、以降チームの粋な計らいとして彼の練習着にも「10」の番号が刺繍されている。なおグランパスでは以前から選手と監督・コーチで練習着のデザインは別となっている。

人物[編集]

キャリアの「明」と「暗」[編集]

彼の現役生活は明暗の起伏に富んでいる。若くして自身の憧れでもあった国内の名門クラブレッドスター・ベオグラードやユーゴスラビア代表で活躍。特に、ユーゴスラビア代表では同国内で名将との呼び声の高いイビチャ・オシムのもとで、その能力を発揮していった。1990年イタリアW杯では、「1986年メキシコW杯は“マラドーナの大会”と言われたように、1990年イタリアW杯は彼の大会になる」との前評判が立つほど大いに期待され、実際にもスペイン戦での2得点や、アルゼンチンとの準々決勝でのプレイは国際的なプレイヤーとして評価された。

しかし、そのアルゼンチン戦はPK戦までもつれたが、ユーゴスラビアの1番手として蹴ったキックを失敗し、そのまま敗れて大会を後にした。マラドーナは「泣くんじゃない。君はこれからの選手なんだ」と声を掛けてストイコビッチを慰めた[1]

スポーツと政治[編集]

旧ユーゴスラビア連邦出身の選手には、民族紛争や連邦分裂等の複雑な事情に対して、スポーツ選手という立場を政治的主義の主張に利用する者もいたのに対し、ストイコビッチは「スポーツと政治は無関係」という立場だったが、1999年のNATOセルビア空爆に対して、3月27日のヴィッセル神戸戦の試合終了間際にアシストをした際、ユニフォームのアンダーシャツに書いた「NATO Stop Strikes」(NATOは空爆を中止せよ)のメッセージを見せるパフォーマンスを行う。これに対しUEFA(欧州サッカー連盟)は29日、「政治とフットボールを混同してはならない」という声明を出した。同日、Jリーグもスタジアムでの政治的アピールの禁止をJ1およびJ2チームに通達している。

なお、彼をこの行動に駆り立てたのは、1992年にイタリアのヴェローナへレンタル移籍されている最中に、チームメイトから「悪魔のセルビア人」「ドラガン・ミロシェヴィッチ」呼ばわりされたことも一因だった。1990年から始まる一連のユーゴスラビア紛争では、独立の気概を持つ諸国が、セルビアに一方的に弾圧されているという決めつけの報道がなされており、ユーゴスラビア対岸のイタリアでさえそう受け止められていた。

セルビア以外の旧ユーゴ出身者との関係[編集]

2004年4月7日、外務省での西バルカン平和定着・経済発展閣僚会合にて、平和親善大使としてスピーチ。その中で「クロアチアのプロシネチキ、シュケルボクシッチヤルニマケドニアバブンスキーボスニア・ヘルツェゴビナのハジベキッチ、アルバニアロリ・ツァナらと変わらない友人関係を続けている」と話している。[2]また、敬愛するイビチャ・オシムもボスニア・ヘルツェゴビナ出身である。

ニックネーム[編集]

子供のころ、彼はサッカーの試合をさぼってまで、大好きだったアニメピクシー&ディクシー[3]」を見ていた。父の証言によればストイコビッチは父の腕時計を持ってサッカーに出かけ、アニメの始まる午後7時15分には必ず家に帰ってきていたという。このことから当時の友達に「Pixie」と名付けられたという。後に、これから転じて「ピクシー」 ("Pixy"または"Piksi") と呼ばれるようになった。

また、「ピクシー=妖精」と紹介されるが、ピクシーは一般的にイメージされる(例えばピーター・パンに出てくるティンカーベルのような)羽根のある女性の姿をした妖精=フェアリーではない。イングランドの伝説によると、眼はやぶにらみで口が大きく色白で痩せた男性の小人で、旅人を道に迷わせたり、鉱夫を騙して喜ぶなどずる賢く悪戯好きの妖精である。 実際は、テレビで彼自身が発言していたように、猫と鼠のアニメのピクシーという名前の鼠に似ていたからのようである。

名古屋の監督となってからは、チーム内では、愛称「ピクシー」ではなく、「ミスター」と呼ぶように求めている。 [4]

監督として[編集]

美しく攻撃的なフットボールが信条。

戦術としてはワンタッチ・ツータッチのパス回しによりボールポゼッションを高め、サイドバックの積極的な攻撃参加によりサイドに数的優位を作り敵陣深くまで切り込むサイド攻撃を基本にしている。
積極的なサイドチェンジや、試合中に右利きの小川を左サイドに左利きのマギヌンを右サイドにとポジションチェンジを繰り返したり、フラットな3ラインのシステムによるゾーンディフェンス等、現代サッカーの基本的な要素を取り入れ、長年Jリーグの中位チームだった名古屋を攻撃的なサッカーを披露する強豪チームに変貌させた。なおストイコビッチのサッカー感を言葉で表現すると「イタリア・セリエAのインテル・ミラノユヴェントスより、イングランドプレミアリーグのウィガンサンダーランドの方が面白い」といい、守備的な試合運びをする前者よりも、お互いに速攻重視する後者を好むという[5]

後半の選手交代は、リードをしているなら守り切って勝つために守備的な選手を、リードされているなら点を取りに行くために攻撃的な選手を入れるなど、非常にシンプルで分かりやすいため、フィールド上の選手らにも瞬時に意志統一がなされる。 その策が上手く嵌って鮮やかに逆転勝ちを収めることもあるが、2010年元日の天皇杯決勝のように攻撃的な采配が大敗に繋がった試合もある。

現役時代ほどではないが、試合中のテンションの高さは相変わらず。また後述されている横浜FM戦での「スーパーゴール」やしばしば見せるリフティングのように、現役時代さながらの技を披露することもある。

リーグ開幕戦や最終戦などの節目や、カシマスタジアムでの連敗を止めた試合などの後にサポーターの前まで挨拶に来ることがあり、選手よりも大きな歓声を浴びる。

外国人選手の補強にも積極的に取り組み、マギヌン以降もAFC枠を活かしてオーストラリアのジョシュア・ケネディを獲得。続いて自分の故郷である旧ユーゴスラビア圏でモンテネグロ代表のホープであるイゴル・ブルザノヴィッチを呼び寄せ、コンサドーレ札幌からダニルソン・コルドバをレンタルで獲得している。

玉田圭司にとっても現役時代の彼は憧れであり、選手とのコミュニケーションを重要視する優れた監督との評である[6]。本人も「選手が私を理解する事も重要だが、それ以上に私が選手を理解する事の方が重要」という方針である。田中マルクス闘莉王からも「普段余計なことを話さずに肝心な時に声をかけてくれる。だからこそ、言葉に重みがある。あの監督のために優勝したい」と崇拝されている。

2010年9月に名古屋グランパス歴代監督最多勝を誇るアーセン・ベンゲルのJ1通算47勝に並び2011年監督続投が決定された[7]

2015年から2020年まで広州富力足球倶楽部の監督を務めたが、好成績を残せず2019年72失点のリーグワーストの失点となり2020年に退任した。

革靴でスーパーゴール[編集]

2009年10月17日、対横浜F・マリノス戦の後半40分に選手が怪我をした際、プレーを切るために相手GKの榎本哲也タッチラインへ蹴りだしたボールにベンチから飛び出して駆け寄り、雨天でピッチが滑りやすい中革靴を履いた右足でノーバウンドのボールをボレーシュート。高く蹴り上げられたボールは52m(実測)先の横浜FMゴールにワンバウンドで「ゴールイン」した。この「スーパーゴール」は、名古屋と横浜F・マリノス双方のサポーターから大歓声を受けたが、試合遅延と審判への侮辱行為として即座に退席処分を受けた。本人は試合後、「こうやって点を取るんだ、と選手に見せたかった。冗談が通じなかった」と侮辱する意図はなかった旨を述べた[8]後、「悪気はなかったんだ、でもゴールは素晴らしかったでしょ?」とおどけてみせた。なお、これが監督時代における初の退席処分となった。さらに1試合のベンチ入り停止処分も受けた[9]。幻のゴールを決められた榎本は「今日は2失点だよ」「怒りを通り越してすげぇと思った」と感想を述べている。試合は1-2でマリノスが逆転勝利した。その後、2010年のリーグ戦で同じ様なシュートをイゴル・ブルザノヴィッチが決めている。

この「スーパーゴール」の映像はYouTubeによって世界中へと配信され、ブラジルのテレビで紹介され反響を呼んだほか、イギリスのテレグラフ紙[10]も紹介、その記事の中で、欧州サッカー連盟UEFAミシェル・プラティニ会長が旧知のストイコビッチに、素晴らしいシュートを決めたことに対して祝電のメールを送ったとの逸話も紹介された。 国内での評価も高く、2009年シーズンのベストゴールという声もある。[11]

また、奇しくも同じ10月17日に、セリエAインテルジェノアの試合においてインテルのMFデヤン・スタンコヴィッチが相手GKのゴールキックをストイコビッチさながらのダイレクトボレーで決めている。ちなみに両者はフランスW杯EURO2000においてユーゴスラビア代表として共にプレーをしている。

これらの反響を受けてグランパスは、瑞穂陸上競技場で行われる2010年5月26日・6月9日・7月28日の平日の3試合で、仕事帰りのビジネスマンを対象にした「あのスーパーゴールにチャレンジ ビジネスシューズでゴールを狙え」と題したイベントを行うと発表した[12]

語学力[編集]

日本語は日常会話程度であるが、通常インタビューには英語で答える。その他、現役時代に居たフランス語(現在自宅はフランス)とイタリア語もマスターしており母国のセルビア語と日本語を合わせて5カ国語を操る。2010年に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニとも通訳を挟まず会談した[13]

その他[編集]

家族は妻と1男2女。

正教会を信仰し、セルビア正教会に属する(セルビア人の大半はセルビア正教会に属する正教徒である)。

イタリア料理が好物であるが、日本の食べ物の多くも好物。「自分の経験から、は疲労回復に最適」というのが持論。また、うどんについては、セルビア・モンテネグロサッカー協会会長として来日した際、多忙なスケジュールの中、わざわざ時間を作ってまでトヨタスポーツセンター社員食堂のうどんを食べたという逸話も残っている[14]豚汁の塩焼きなども好物。その他、通常日本人でも苦手にすることもある食べ物も好物で、その中でも納豆については、グランパス選手時代にキャンプ中納豆を食べようとしない若手選手に食べさせようとしたばかりか、果ては納豆好きが昂じ、セルビア・モンテネグロサッカー協会会長時代に代表の食事メニューに納豆ご飯を取り入れようとし、選手から顰蹙を買ったというエピソードもある。そんな納豆好きな彼の為に現在もチームのキャンプなどの合宿の朝食時は欠かさず納豆が用意されている(無い場合は不機嫌になるのでチームのスタッフが調達してくるらしい)。ちなみに納豆は薬味など多数のものがないとおいしくないため、家ではなくホテルや合宿で食べるのが好きとのこと。

2004年7月、セルビア・モンテネグロの治安の悪さを理由にパリに移住し、その後に母国で仕事をするようになってからも自宅はパリにある。

ちなみに少年時代のアイドルはミシェル・プラティニであった。ただ同時に一般論として、個人マークの厳しい現在のプレッシング・サッカーにおいて、単純にプレースタイルを比較することは出来ない、ともしている。

ユーゴ代表時代の師匠である前日本代表監督イビチャ・オシムには絶対的な信頼を寄せ、「オシムがベストだ。」(ベンゲルとオシムが現役時代に会った最高の監督とも発言)、「どんな困難な状況でもベストの選択をする。オシムをサポートすれば日本は必ず強くなる」と太鼓判を押していた。また実現はしなかったが、その師弟関係から日本代表のコーチとしてオシムの右腕になるのではとマスコミ等で話題になった事もあった。2010年にリーグ優勝を決めた際には、ベンゲルやオシムから祝福のメッセージを受けている。[15]

1997年7月9日の対横浜マリノス戦で、小幡真一郎主審の出したイエローカードを取り上げ、逆に主審に向かって突き付けた。その結果、審判への侮辱行為として4試合の出場停止処分となった。ちなみに、イエローカードを突き付けた後主審にレッドカードを出されたため、侮辱行為によるレッドカードと誤解されることがあるが、実際はこのイエローカードはこの試合2枚目であり、仮に突き付けなくても退場処分になっていた。

選手時代、Jリーグでは通算13回の退場処分を受けており、これはJリーグ史上最多。ちなみに、2007年シーズン終了時点での2位は8回(大久保嘉人松田直樹)である。

引退後の2001年9月、豊田スタジアムの北10番ゲートがストイコビッチにちなんで「ピクシーゲート」と命名される。

TBSスーパーサッカー』において小倉隆史は「現役時代のストイコビッチは喫煙者だが、あのレベルのプレーをしていて驚いた」と評した。なお、敬愛するプラティニも喫煙者である。

近年はインタビューなどでは母国語のセルビア語ではなく英語で話している。

現役時代は数多くのゴールを挙げたが、グランパスが苦手としているカシマスタジアムではゴールを挙げられなかった。それゆえ自らが監督となった2008年に同スタジアムでの21連敗という不名誉な記録に終止符を打ったときは選手・スタッフと共に喜びを爆発させた。

日本代表監督のアルベルト・ザッケローニと会談した際は、Jリーグと日本人選手についての知識をイタリア語で伝え、「出来る事はすべてサポートするつもりです。必要があれば、私の経験もお話しします」と語った。[16]

現役時代は喫煙者であり、その旨をスーパーサッカー小倉隆史が語ったことがある。

クラブチームの統計[編集]

年度 リーグ 試合 得点 試合 得点
名古屋 リーグ Jリーグ杯
1994 J - 14 3 1 0
1995 - 40 15 -
1996 - 19 11 10 3
1997 10 18 2 6 1
1998 10 28 7 1 0
1999 J1 10 24 11 5 2
2000 10 26 5 5 2
2001 10 15 3 2 0
通算 184 57 30 8
総通算 184 57 30 8

代表チームの統計[編集]

ユーゴスラビア代表
試合 得点
1983 1 0
1984 5 2
1985 2 0
1986 0 0
1987 5 2
1988 6 2
1989 11 1
1990 9 2
1991 1 0
1992 1 0
通算 41 9
セルビア代表
試合 得点
1994 2 0
1995 3 0
1996 8 3
1997 7 0
1998 10 1
1999 4 2
2000 7 0
2001 2 0
通算 43 6

脚注[編集]

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外部リンク[編集]

1990年代 1993: 三浦知良 (V川崎) | 1994: ペレイラ (V川崎) | 1995: ストイコビッチ (名古屋) | 1996: ジョルジーニョ (鹿島) | 1997: ドゥンガ (磐田) | 1998: 中山雅史 (磐田) | 1999: アレックス (清水)
2000年代 2000: 中村俊輔 (横浜FM) | 2001: 藤田俊哉 (磐田) | 2002: 高原直泰 (磐田) | 2003: エメルソン (浦和) | 2004: 中澤佑二 (横浜FM) | 2005: アラウージョ (G大阪) | 2006: 田中マルクス闘莉王 (浦和) | 2007: ポンテ (浦和) | 2008: マルキーニョス (鹿島) | 2009: 小笠原満男 (鹿島)
2010年代 2010: 楢﨑正剛 (名古屋) | 2011: レアンドロ・ドミンゲス (柏) | 2012: 佐藤寿人 (広島) | 2013: 中村俊輔 (横浜FM) | 2014: 遠藤保仁 (G大阪) | 2015: 青山敏弘 (広島) | 2016: 中村憲剛 (川崎) | 2017: 小林悠 (川崎) | 2018: 家長昭博 (川崎) | 2019: 仲川輝人 (横浜FM)
2020年代 2020: オルンガ (柏) | 2021: レアンドロ・ダミアン (川崎) | 2022: 岩田智輝 (横浜FM) | 2023: 大迫勇也 (神戸)
Jリーグベストイレブン-1995
GK: 菊池新吉 | DF: 相馬直樹ブッフバルト井原正巳鈴木正治 | MF: 柱谷哲二ビスマルク | FW: 福田正博三浦知良ストイコビッチ森島寛晃
Jリーグベストイレブン-1996
GK: 楢崎正剛 | DF: 相馬直樹ブッフバルト井原正巳 | MF: ジョルジーニョ前園真聖山口素弘名波浩 | FW: 岡野雅行三浦知良ストイコビッチ
Jリーグベストイレブン-1999
GK: 真田雅則 | DF: 中澤佑二斉藤俊秀森岡隆三 | MF: 中村俊輔アレックス伊東輝悦澤登正朗福西崇史 | FW: ストイコビッチ黄善洪