中山雅史

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サッカーボール.jpg 中山雅史
選手情報
本名 中山雅史
英字表記 Masashi Nakayama
生年月日 1967年9月23日(54歳)
出身地 日本静岡県
身長 178 cm
体重 72 kg
ポジション フォワード
クラブチーム
1990-2009
2010-2012
2015-2020
ヤマハ/磐田
札幌
沼津
代表チーム
1990-2003 日本

中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は日本サッカー選手。

エピソード[編集]

幼少期 - 学生時代[編集]

3人姉弟の末子で長男。強い姉2人に対抗するため必然的に負けず嫌いの性格になった。

サッカーを始めたのは小4で少年サッカー団に入った時だが、遊びレベルでは幼稚園の頃からサッカー遊びも野球もしていた。子供の頃から故郷の山や川で遊び回っていたことが、後年中山の身体能力の高さの土台となった。

中学時代はサッカー部・合唱部・陸上部を掛け持ちしていたが、大会で最初に敗退したのはサッカー部だった。一方合唱部ではテノールのパートリーダーを務め入賞したこともある。

地元の進学校でありサッカーの強豪校でもある藤枝東高校には一般入試で進学(当時藤枝東高校には推薦入試制度はなかった。併願で静岡学園も受験し合格している)。一緒に受験した他中学のサッカー部員に「あの中山と一緒か?!」と恐れられたという。同級生にはスピッツのリーダーでベーシストの田村明浩がいた。2学年上に俳優の別所哲也がいた。

藤枝東高校では2年生の時点で背番号10を背負うエースだったが、静岡県高校選抜では武田修宏の存在もあり、ディフェンダー(センターバックやサイドバック)としてプレーすることが多かった。この頃のサイドバックとしての経験からプロ選手になってからもクロスボールの精度は高く、味方へのアシストも多い。

筑波大学への推薦入学を決めた中山に父・儀助が付けた唯一の条件は、サッカーを辞めた後の人生のための教員免許取得だった。教育実習に行った茨城県内の中学校には、10年後にチームメイトとなるカレン・ロバートの兄がいた。筑波大学在学中に中学校・高等学校教員(保健体育・体育)一種免許状を取得している。

大学の同期生井原正巳は等身大のライバルにして同志。セブン-イレブンでのアルバイト仲間であり、お互い相手には隠れてトレーニングを積んでいたという。

筑波大学在学中に野村證券から入社勧誘を受け、サッカー選手になっていなければ野村に勤務していたと思うと発言している。

愛称[編集]

ゴンの愛称は大学時代につけられたもの。当時、海外遠征中の不摂生で太ってしまった中山の顔立ちがTV番組「オレたちひょうきん族」でビートたけしが演じたキャラクター「鬼瓦権造」に似ていた、というのが由来で、大学時代の先輩である鋤柄昌宏が名付け親。中山が大学時代生活していた寮の狭い部屋には不釣合いに大きなタンスがあったため(中山によれば、それ自体は事実)、「タンスに…」の連想から「ゴン」のあだ名が付いたという異説もあるが、これは後付け的説と言われる。

ファンはしばしば中山隊長とも呼ぶが、これは筑波大学時代にユニバーシアード代表でキャプテンを務めた際のチームメイトがそう呼んだことがきっかけとなっておりザ・ビートルズの楽曲「イエローサブマリン」のメロディで「中山隊長ゴンゴール」がチャントとなっている。

ファーストネーム、またはそれに由来する愛称「隊長」等で呼ばれるサッカー選手、千葉の坂本将貴など多いが、彼の場合世間一般では「ゴン」「ゴン中山」「(ゴン)中山隊長」などの愛称のほうが通りが良く、日本ではよほどのマニアックなファンでもなければファーストネームの「雅史」のみで呼ぶことはまずない。ドイツW杯抽選会ではゲストは(通称を登録名としている人物以外)全員ファーストネームで呼ばれ、そこでは彼も「Masashi」と呼ばれた。

選手仲間、マスコミ関係者などからは「中山さん」「ゴンさん(ちゃん)」(彼より年上もしくは同輩のサッカー関係者からは敬称なし)と呼ばれることが多い。

同じチームに所属していた外国人選手の中には彼の実名が「Gon」だと勘違いしていたケースもあった。

2002年ワールドカップの日本代表に選出された際、トルシエ日本代表監督(当時)が「日本には『Gon』がいる」と発言したのを通訳者が聞き間違えて「『God』(神)」と誤訳したが、これはくしくも監督と日本サポーターの真意通りの表現であった。

2004年出生の中山の一人娘は、人の名前を認識し始めた当初、父親の名前を「なかやまジュビロ」だと思っていた。

Jリーグ[編集]

1993年秋の「ドーハの悲劇」で知名度・人気が高騰したことでCM出演依頼が増え、特に1994年にはCM出演は多数。Jリーグ加入が1年遅れたジュビロ磐田の知名度を上げることにも繋がった。しかしその1994年は怪我のため5月以後の試合出場はなかったので、一部マスコミは「CMでしか見ない人」「ドーハのみの一発屋」との痛烈な批判的記事もあったが、翌1995年の復活でそれらの風評を払拭した。

中山自らゴールを決めてチームの勝利に貢献すると、試合後サポーターの応援歌に応えて「ゴンダンス」を披露したりもする。かつてのチームメート・ドゥンガ(元ブラジル代表主将。前ブラジル代表監督)は「中山ほどファンと喜びを共有しようとする選手は他に知らない」と称えている。上記のギネス記録の他にJリーグ試合時、PKのキッカーでシュートを撃つも勢いよく蹴ったボールがクロスバーに直撃、大きく弧を描いて飛んだボールの落下点に居た敵チームの選手がボールキープしてそのままジュビロ磐田の失点に繋がるという、かなり珍しいプレーがある。試合後、中山に声をかける者は無く、かなりバツの悪い思いをしたと語っている。

2001年から2007年までJリーグ選手協会会長も務めており(現在は名誉会長)、Jリーグや日本サッカー界を盛り上げ、日本にサッカーを文化として根付かせたいという強い信念の持ち主でもある。内外のサッカー事情を把握すべく、新聞で毎節J2の観客動員数までチェック、静岡ローカルでTV放映される高校やユース年代の試合も出来る限り視聴し、その内容も正確に記憶している。

日本代表[編集]

FIFAワールドカップ-1994・アジア最終予選の第2戦イラン戦は0-2と敗色濃厚になる中、中山はゴールラインを割りそうなパスをスライディングで止め、すかさず角度のないところからゴールを決めた。さらにボールを持つと、鬼気迫る表情で仲間を鼓舞しながらセンターサークルへ戻った。このプレーがきっかけとなり、日本はムードを立て直して北朝鮮戦、韓国戦を連勝し、ワールドカップ初出場まであと一歩に迫った。

1997年9月のワールドカップアジア地区最終予選では、国立競技場での日本対韓国戦を中継したTBSのピッチレポーターを務め、試合前にはスタンド前でサポーターを盛り上げ明るく振舞っていたが、後年「その試合のチケットを持っていなかったのでつい仕事を受けてしまったが、現役選手の自分が一体何をやってるんだ、とかなり複雑な心境でいた」と告白。また、その日韓戦終了後、韓国代表の車範根監督が完勝と自慢げに語ったインタビューに対し、「そんなに韓国が圧倒してたわけじゃないんですけどねぇ…」と反発、悔しさを顕にしていた。その後窮地に陥った日本代表を救うべく、ホームのカザフスタン戦から代表に選出され、まともに食事も摂れないほどのプレッシャーに苦しみながらも(本人曰く「力石状態」)結果的には、第三代表決定戦で先制ゴールを決め、ワールドカップ初出場に貢献した。

上記の最終予選で代表復帰した際には、ともにドーハの悲劇を味わい、代表で正FWを争ってきた高木琢也も同時に代表復帰した。復帰後初戦のカザフスタン戦では、二人とも直前のリーグ戦で好調、またカズと呂比須が累積警告による出場停止、岡田監督も情報統制を敷いたため、サポーターは「どちらが先発するんだろう?」といい意味でやきもきしていた。そして試合当日、場内アナウンスと大型ビジョンでの先発選手紹介、日本代表で最後に不敵な笑顔の画像とともに「FW、背番号32、中山雅史」が告げられると、国立競技場を埋めた5万人以上のサポーターから大歓声と「オーナカヤマ!ナカヤマナカヤマ、ゴンゴール」の大合唱が沸き起こった。試合でゴールを挙げるとユニフォームをたくし上げ、その下にカズの「11番」のユニフォームを着込んでいたというゴールパフォーマンスをみせた。

日本で開催される代表試合において、サブメンバーの中山がアップのペースを上げたり、メンバー交代で中山の出場がアナウンスされると異様な程の大声援となるので、中山を知らない相手の外国人選手は「そんなに凄い選手が出てくるのか?」と戸惑いを感じると言われる。2002年の日韓共催W杯のロシア戦において途中出場した際も同様の現象が起きた。

2002年の日韓W杯のメンバー発表以前に発売された日本版ウイニングイレブン6のイメージキャラクターを務めた。その後、メンバー発表で土壇場のサプライズ選出が起こり、このソフトの売り上げが増大したという。なお、発売元のコナミでは中山の起用を「狙った訳でなく、全くの偶然」と話している。

2006年のドイツW杯組み合わせ抽選会(2005年12月9日、ドイツ・ライプツィヒ)に招待ゲスト(ドローワー)として参加した。

2006年FIFAW杯ドイツ大会の代表には選出されなかったが、現地レポーターやゲスト解説として活躍。珍妙な発言や妙なポーズをとったりし視聴者や共演者から笑いを誘う一方、過去W杯日本代表として闘った経験から、身をもって残してきた教訓が全く生かされなかった惨敗への苛立ちもコメントの端々から感じられた。ただ出場した選手に対しては、クロアチア戦でシュートを外した柳沢敦のプレーについてコメントを求められて、自身の経験談を交えながらプレーの際の選手心理を説明してその立場を慮るなど暖かい配慮も見せている。本気か冗談か「エントリー変更のリミットまで連絡待ちしていた」とも言い、スタジオの日本代表歴のある選手達・コメンテーター達からも「今からでもいいから代表に合流して選手達を一喝してやれ」と言われていた。

人物[編集]

サービス精神が旺盛で話術に長け滑舌も良く、ファンを喜ばせようと場を盛り上げるべく軽妙なトークを披露することで知られている。

多くの伝説的名言があるが、世間が「ゴン中山的」だと思っている奔放な発言の多くはその場のひらめきで、本人はあまり覚えていないとのこと。一方で中山は先述の数々のエピソードでも言及されている通り記憶力に優れ、サッカーのプレイや熟考した上での発言は驚くほど正確に記憶しており、自身でも人の顔を覚えるのが得意と述べている。また自身のゴール集のDVDではJ昇格を目指して戦っていた頃のゴール(収録の時点の12年も前である)についても、映像を見ずにすらすらとその時の状況を回想している。

サッカーのプレーに関しての発言では、真面目に熟考した上での発言をすることが多い。特に試合直後のインタビューではその傾向が強くなり、過去中山を取材した「情熱大陸」などのスポーツドキュメンタリーでは、笑いを狙った発言などは一切ない。しかしオールスター戦など「お祭り」では硬い話はあまりせずに楽しませる会話が増える。

「自分は下手だからこそまだまだ上達できる」と常に練習に励み、試合後は「まだまだです」とコメントすることが多い。その真面目さ・ストイックな面を藤田俊哉は「他人にも厳しいけれども、自分にはもっと厳しい人」と評している。妻の生田智子曰く「ああ見えても普通の人間。意外とデリケートだし落ち込む時もある」。

妻の生田智子とは、まだ中山が無名選手だった頃、サッカー界・芸能界共通の知人を介して知り合う。生田が中山が生活している静岡県から比較的近い名古屋で舞台出演した際、中山が陣中見舞いに訪れるなどして徐々に親しくなる。「ドーハの悲劇」以降、世間に顔と名前が知られるようになった中山と生田が外で公然と会うのは困難となったため、生田が実家に中山を招いたことを機に、家族公認の本格的な交際に。遠距離恋愛、中山の選手生命を脅かす故障などの困難を乗り越え、1996年に結婚。プロポーズは東京駅新幹線ホームに向かうエスカレーターで中山が生田に「結婚するか?」と言ったというが、その前に中山は生田の両親に「結婚を前提に真剣に交際している」ことを告げていたという。

結婚9年目の2004年、第1子の女子が誕生。この子が父親のサッカー選手としての雄姿を記憶できる年齢になるまではと、中山が現役選手であり続ける大きな原動力の一つになっている。

試合前に聴く「勝負曲」の好みは中西圭三のバラード。1998年のW杯初出場記念に中西が中山への応援歌として製作した曲『SON OF THE SUN』では、中山自身が自慢のテノールで特別ゲストとしてコーラスに参加している。

中西以外にはB'zの大ファンである。しばしばライブ会場で夫婦そろって目撃されている。またボーカルの稲葉浩志とは同じ誕生日(9月23日)というよしみもあり1998年頃からプライベートでの付き合いもある。 そして稲葉の2010年のソロツアーのパンフレットにおいて「稲葉浩志×中山雅史」という対談が実現した。(実際にソロツアーの札幌公演でも目撃されている。) そこではお互いに、サッカーのことミュージシャンであることを再認識しながらも互いのことについて話し合い、中山は2008年のNHKスペシャルでの稲葉のライブ前の合宿での走りこみなどストイックな精神に深く感銘を受けたと言う。 また、中山は妻とはよくカラオケに行くがultra soulを頑張って歌おうとしてもキーが高くて歌えないという。 しかし自分の中で意識を高める時はやっぱり結局ultra soulだと中山は語っている。 札幌に移籍した直後のキックオフイベントで、登場時にultra soulを使用してパフォーマンスを行った。

身体を投げ出すプレイスタイル故に、何度も大怪我を負い、受けた手術は十数回、全身麻酔での手術も少なくない。その全身麻酔の度にいつまで意識を保てるか「勝負」し、1999年の眼窩底骨折の手術の時は目を見開いたまま意識を失ったという。

本業のサッカー選手としてのキャラクターに留まらず多様なメディアに露出している。中山のニックネームにかけて金鳥「タンスにゴン」のCMにも出演した。この金鳥は長らく磐田のスポンサーであり、1998年から2005年まではユニフォームの背中にスポンサーロゴ(KINCHO)を掲出していた。他にも多数のCMに出演し、侍姿で殺陣を披露したり、紳士服モデルを務めたこともある。いかにもスポーツマンらしい情熱的かつ爽やかな印象を買われてか、2004年参院選など公的イメージキャラクターにも多数起用されている。アニメ『ハングリーハート WILD STRIKER』では中山が登場するエピソードで自ら「中山雅史」の声を演じた。その声優としての実力は「プロ顔負け」と高く評価された。

シーズンオフには年末年始特番やスポーツ・情報・バラエティ等の番組に度々ゲスト出演もする。現役プロアスリートとしては異例だが、2003年放映の短期集中TVサイエンスバラエティ番組『ジュブナイル』ではメイン司会を務めた。その活動ぶりを「芸能人気取り」と誤解する向きも一部にはあるが、本人は「あくまで自分の本業はプロサッカー選手である」という自覚は常に持っている。

漫画『ホイッスル!』の作者樋口大輔が中山の大ファンであり(サイン入りキーパーグローブを所持)、主人公・風祭将の性格、ゴール、エピソードなどには、彼のそれをモチーフとしたものが多く登場する。なお同作に登場する周防将大も中山をモデルにしたキャラクターで、「本人を出すのはおこがましい」との理由で名前や設定は変えてあるものの、1975年「9月23日生まれ」で中山と同じ誕生日である。

ジュビロ磐田初代監督の長澤和明は、女優長澤まさみの実父であり、また小学校低学年だったまさみからプロポーズされた中山は承諾するが後に生田と結婚、その後長澤から笑いながら「大人はうそつき」と言われたのを受けて中山は「まさみちゃん!今からでも遅くは無いよ!」とTV(やべっちFC)を通じてメッセージを送った。

以前は切れ長の一重瞼の眼をチャームポイントだと自称していたが、2007年初頭頃、特に右目がぱっちりとした二重瞼に変化し、間もなく左目も二重となった。妻の生田は「(本人は)風邪をひいたためだと主張していたがそのまま戻らない」「摩訶不思議」「今度テレビで見たら注意して見てください」とコメント。

2008年、入れ替え戦の末J1に残留した後の挨拶で「サポーターの皆さん、J1に残ったどぉ~!」とファンを笑わせたが、その後は今後に向けての抱負を真剣に語った。この年Jで唯一あげたゴールはトラップでバランスを崩しながら流し込んだ(通称「寝たきりゴール」本人曰く「うまい具合に相手がフェイントに引っかかってくれた」らしい)。

クラブチームの統計[編集]

年度 リーグ 試合 得点
ヤマハ/磐田 リーグ
1990/91 JSL1 9 13 4
1991/92 9 18 15
1992 旧JFL 9 16 13
1993 9 18 18
1994 J - 12 3
1995 - 45 18
1996 - 27 9
1997 9 27 18
1998 9 27 36
1999 J1 9 23 6
2000 9 29 20
2001 9 30 16
2002 9 29 16
2003 9 12 3
2004 9 19 3
2005 9 29 6
2006 9 13 1
2007 9 15 1
2008 9 16 1
2009 9 1 0
通算 419 207
札幌 リーグ
2010 J2 9 12 0
2011 9 0 0
2012 J1 9 1 0
通算 13 0
総通算 432 207

代表チームの統計[編集]

日本代表
試合 得点
1990 1 0
1991 0 0
1992 6 3
1993 8 4
1994 0 0
1995 4 1
1996 0 0
1997 2 2
1998 10 4
1999 1 0
2000 7 6
2001 8 1
2002 3 0
2003 3 0
通算 53 21

表彰[編集]

  • Jリーグ・最優秀選手賞 (1998年)

関連ページ[編集]

1990年代93: 三浦知良 (ヴェルディ川崎) | 1994: ペレイラ (ヴェルディ川崎) | 1995: ストイコビッチ (名古屋グランパスエイト) | 1996: ジョルジーニョ (鹿島アントラーズ) | 1997: ドゥンガ (ジュビロ磐田) | 1998: 中山雅史 (ジュビロ磐田) | 1999: アレックス (清水エスパルス)
2000年代2000: 中村俊輔 (横浜F・マリノス) | 2001: 藤田俊哉 (ジュビロ磐田) | 2002: 高原直泰 (ジュビロ磐田) | 2003: エメルソン (浦和レッズ) | 2004: 中澤佑二 (横浜F・マリノス) | 2005: アラウージョ (ガンバ大阪) | 2006: 田中マルクス闘莉王 (浦和レッズ) | 2007: ポンテ (浦和レッズ) | 2008: マルキーニョス (鹿島アントラーズ) | 2009: 小笠原満男 (鹿島アントラーズ)
2010年代2010: 楢崎正剛 (名古屋グランパス) | 2011: レアンドロ・ドミンゲス (柏レイソル) | 2012: 佐藤寿人 (サンフレッチェ広島) | 2013: 中村俊輔 (横浜F・マリノス) | 2014: 遠藤保仁 (ガンバ大阪) | 2015: 青山敏弘 (サンフレッチェ広島) | 2016: 中村憲剛 (川崎フロンターレ) | 2017: 小林悠 (川崎フロンターレ) | 2018: 家長昭博 (川崎フロンターレ) | 2019: 仲川輝人 (横浜F・マリノス)
2020年代2020: オルンガ (柏レイソル)
Jリーグアウォーズ(最優秀選手賞 - JB11 - 得点王 - JBYP賞 - JFP個人賞 - J2MEP - 功労選手賞 - 最優秀監督賞 - 最優秀主審賞 - JBP賞)