岡田彰布

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Baseball Pitcher.jpg 岡田彰布 Baseball Batter.jpg
基本情報
出身地 大阪府大阪市
生年月日 1957年11月25日
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 二塁手三塁手一塁手外野手
身長 175 cm
体重 77 kg

岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手、指導者。阪神タイガースオリックスブルーウェーブに所属していた。ネット上では「どんでん」の愛称で親しまれている。

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

大阪市で町工場を営む熱狂的な阪神ファンの父の下で生まれた。父はいわゆる「タニマチ」で村山実などの阪神の選手を家に招待しており、阪神の選手と身近に触れ合う環境に置かれるうちに岡田自身も阪神ファンになっていった。小学校のころに野球を始め、父の熱心な指導を受け高校時代には地元の高校野球界で名の通った選手となった。北陽高校卒業時は早稲田大学を志望するが甲子園出場を果たせなかったこともあり野球推薦はもらえなかった。やむを得ず一般入学で早稲田大に進学し、野球部の入部セレクションで15打数14安打14本塁打という驚異的な成績を見せて入部を果たす。大学野球では1年の秋からサードのレギュラーを掴み5度のベストナインと三冠王のタイトルを獲得した。東京六大学野球の歴史の中でも屈指の成績を残したためプロ球団の獲得競争は熾烈なものとなった。1979年のドラフト会議で6球団から1位指名を受け、抽選の結果阪神が交渉権を獲得し入団。岡田は「在阪球団を希望するが出来れば阪神」と話していただけに相思相愛の獲得という形になった。尤も「巨人でなければどこでもよかった」らしい。

プロ時代[編集]

大物スラッガーの入団に在阪マスコミと阪神ファンの注目が集まったが、当初は当時のドン・ブレイザー監督の方針で一軍では起用されなかった。しかしこの方針に不満を持つファンがブレイザー宅に刃物入りの手紙を送りつけるなど岡田の起用を求める声が高まったためブレイザーはシーズン途中で解任される。代わった中西太監督代行が岡田を二塁手のレギュラーで起用し、新人王のタイトル獲得につながった。

その後1983年まで順調な成長を続けるが同年のシーズン終盤に足を痛める。以降この古傷に悩まされることとなる。

1985年は打率、本塁打、打点のすべての記録でキャリアハイの成績を残し、球団史上初の日本一に大きく貢献した。この年の打順は掛布雅之ランディ・バースに続く5番打者であり、あのバックスクリーン3連発もこの年である。

しかし翌年からは例の古傷が再発することが多くなり、徐々に成績を落としていった。この不振が掛布の引退やバースの退団と時期的に重なりチームは暗黒時代に突入していく。

1992年、この年は主に一塁を守っていたが開幕から打率1割台と低迷し、4月25日の試合で代打に若手の亀山努を送られたことはファンから世代交代の象徴的シーンと騒がれた。

1993年オフに阪神を自由契約になり退団。涙ながらに会見で「これからも阪神ファンであり続ける」と語り(後述)、現役続行の意思を表明した。その後オリックス・ブルーウェーブが興味を示し、オリックス入団に至る。

オリックス時代はベンチ起用が多く、二軍で若手指導に当たることも多かったが、実は1995年にオリックスの優勝が決まった試合で一塁を守っていたのは岡田である。1995年オフに球団からコーチ転身を進められこの優勝を花道に引退。16年の現役生活に終止符を打つ。

指導者時代[編集]

引退後数年はオリックス、阪神で二軍のコーチを歴任する。阪神二軍時代にはそれまで実力重視で将来性を考慮していなかった起用法を改革し、後の一軍監督時代に活躍する選手を育てた。それまでの阪神二軍では20代後半~30代の戦力外間近と思われる選手であっても実力を重視してクリーンナップで出場させていた。この理由を岡田が二軍コーチに聞くと「勝つためだ」と答えられ、唖然としたという。「二軍は育成の場であり、勝敗は二の次で将来一軍で活躍できそうな選手を優先的に起用すべき」と考えた岡田は若手有望株だった選手を我慢強く起用し続けた。関本賢太郎浜中治が二軍で3番4番で起用されたのはこの時からであった。 ただ、1999年から一軍監督に就任した野村克也とはそりが合わず、岡田が推薦した選手が一軍で起用されなかったなど対立が噂された。野村は一芸に秀でた選手を好む傾向があり、岡田がオールマイティなタイプの関本を何度推薦しても、長打力があるがその他の点はさっぱりな浜中を一軍昇格させたと岡田は後に語っている。 二軍監督で優勝を経験したのでそろそろ一軍コーチに...という声が挙がっていた2003年、星野仙一が一軍監督に就任。一軍内野守備走塁コーチを任される。この年のリーグ優勝はサードコーチャーの岡田の走塁指示が大きかったという声もある。 2004年から星野に代わり一軍監督に昇格する。「期待してもらって結構」と大口を叩いたにも関わらず1年目は4位に終わりファンを落胆させる。しかし2年目の2005年は安藤優也の先発転向と後にJFKと呼ばれるリリーフ陣の整備がはまりV奪還を果たす。阪神選手、オリックス選手、オリックス二軍コーチ、阪神二軍監督の時代に続く5度目の胴上げを味わった。しかし日本シリーズは0勝4敗の惨敗に終わる。(33-4

2006年-2008年も優勝争いに関わりAクラスに入ったが2008年に読売ジャイアンツに逆転優勝された責任を取り同年限りで監督を辞任。 2010年から2012年までオリックスの監督を務め、リリーフ陣の立て直しやT-岡田の育成などチームを立て直す上で功績はあったが3年連続Bクラスに終わり、2012年のシーズン終盤に休養しそのまま退任した。

指導者歴[編集]

  • 1996-1997年 オリックス・ブルーウェーブ 二軍助監督兼打撃コーチ
  • 1998年 阪神タイガース 二軍助監督兼打撃コーチ
  • 1999年 阪神タイガース 二軍監督兼打撃コーチ
  • 2000-2002年 阪神タイガース 二軍監督
  • 2003年 阪神タイガース 一軍内野守備走塁コーチ(三塁担当)
  • 2004-2008年 阪神タイガース 一軍監督
  • 2010-2012年 オリックス・バファローズ 一軍監督

人物[編集]

  • 幼稚園児の頃に、阪神の三塁手三宅秀史(700試合連続フルイニング出場・元日本記録保持者)とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという。岡田が阪神入団後、背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。
  • 小学校時代から家で甲子園の年間指定席を取っていたが、その場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・巨人の三塁手・長嶋茂雄を一番近くで見られ、そこからヤジを飛ばすためにその席を取ったという[1]
  • 学生時代より人柄の良さは知られており、人望が厚く先輩後輩問わず慕われてきたその人心掌握術によって早くから幹部候補生として期待されていた。主将になってからは自分でスタメンを決めていた。一方で、「熱狂的阪神タイガースファンクラブ(早大猛虎)」という学生の応援サークルに所属しており、一般学生と一緒にコンパやソフトボールを楽しむ一面もあった。
  • 岡田がルーキーの頃に、プロレスラーアブドーラ・ザ・ブッチャーが「コイツは、絶対に大物になる」と岡田に賛辞を送って以来、ブッチャーとは交友がある。
  • 阪神時代、シーズンオフに大阪市内の実家近くで近所の小中学生とソフトボールをしていたとき、一人だけずば抜けた野球センスを持つ中学生がいた。それが後に横浜ベイスターズで阪神キラーとなる三浦大輔であり、高校生の時、阪神がドラフトで指名しなかったことに激怒していた。
  • 1986年の安芸キャンプを長嶋茂雄が視察に訪れた際、「長嶋茂雄は嫌いや」と報道陣に語ったことがある。当然、周囲や他球団選手がこの発言を批判したが、岡田はこうも語っている。「オレは今は阪神の選手。阪神の選手がライバル球団の(元)選手を好きや、なんて言うたらファンは怒るやろ。もちろん、プロ野球人としての素晴らしい能力や人間性といったこととは別にしてな。だから、オレは阪神のユニフォームを着ている間は長嶋さんを好きや、とは絶対言わない」。
  • 強運なことで知られ、抽選やクジなどで外れた記憶がない(本人談)。1979年のドラフト時に6球団争奪の末、阪神に引き当てられた逸話は岡田の強運を象徴している。逆指名・自由獲得枠のない当時、指名前に希望球団を言うことはできなかったが、記者の取材に「(希望は)どことは言えないがセ・リーグの在阪球団である」と答えた。1989年の逆転満塁弾の時も、イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたとのこと。ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。
  • 東京ドームこけら落しの試合で、一塁ベース手前で転倒して顔面をベースに強打、東京ドーム負傷者第1号となった。
  • 阪神退団時に「もう阪神の選手では無くなるけど一生阪神ファンです」と発言していた。
  • 1992年4月25日、岡田の代打に亀山が送られた夜、遠征先のホテルの部屋でかなり自棄になって、木戸克彦ら親しい選手数人と酒を飲んでいた。その中で中西清起が「そんなん、打てへん岡田さんが悪い!」と言ったとたん、岡田は大荒れし、灰皿代わりにしていた空き缶を投げつけ、ホテルの備品を壊した。翌日球団は数十万円の修繕費を請求されたという。問題の一言を発した中西は、のちに岡田監督の下で投手コーチを務めることになった。
  • 藤本敦士が学生時代に故障し野球を断念しかけた際に、藤本の実家の焼き鳥屋の常連だったという縁で甲賀総合科学専門学校を紹介した。その後藤本が阪神に入団した時、岡田は二軍監督であった。
  • 原辰徳とは大学時代の全日本代表で共にクリーンアップを担っていた時から付き合いがあり、プライベートではお互いに携帯でメールでやり取りする仲である。2008年に岡田が阪神監督を辞任した時に「“岡田さん、辞めないでください”と原からメールが来た」と岡田がコメントしたことがある[2]。岡田もまた、原が2003年に監督を辞任する際には、将来監督として戻ってくることを見据えて「次に監督をやる前に、ファームの監督をやってみてはどうか」と持ち出したりもした[3]
  • そらそうよ」が岡田の口癖。大阪弁に「アレ」や「それ」を多用した独特の喋り方は「どん語」と呼ばれ、取材に当たる記者が発言を補足して記事にする場合が多い。(というか補足しないと伝わらない)
  • 愛称の「どんでん」はかつて出演した味の素のうどん・おでんだし「どんでん」のCMのCMが由来である。坂田利夫(アホの坂田)と「それなんでんねん」「うどんでんねん」...と掛け合う独特なテイストとなっている。2ちゃんねるなど電子掲示板などでは、略して敬称を付けた「どん様」の表記も見られる。現役時代は「ノムカン」(野村克也藤山寛美を足して2で割ったような顔をしているため)。
  • ガンバ大阪遠藤保仁の顔があまりにも岡田に似ているため、「遠藤保仁の親父」(一方の遠藤は、岡田彰布の息子)と最近では一部のファン(ガンバ大阪のサポーターと岡田本人のファン両方)から呼ばれている。なお、遠藤がガンバに移籍時の最初の背番号は奇しくも岡田の背番号と同じ「16」である。
  • 朝青龍と親交があり、朝青龍が球団関係者しか手にいれることができない阪神のロゴマークのあるジャンパーを着ていたため、ファンの間で騒ぎになることになったが、後に岡田が朝青龍の名前の刺繍をつけてプレゼントしたと発言。周囲を仰天させた。
  • 2007年の日本シリーズ第5戦での山井投手の完全試合目前での交代劇に対して、「そんなん代えるやろ当然、うちでいうたら藤川球児になるけどな。一応、あれで終わりという試合やから」と述べて、落合の采配を支持している[4]
  • 小学校低学年の頃から将棋を趣味としており、その実力が評価され、2008年1月24日日本将棋連盟からアマ三段の免状を授与された[5]。免状の末尾の署名者は、連盟会長(米長邦雄永世棋聖)、名人森内俊之)、竜王渡辺明)に加え、関西のドンと呼ばれる内藤國雄九段の計4名、そして、免状の手渡し役は神戸在住の永世名人資格者・谷川浩司という、豪華なメンバーであった。
  • 大の演歌好きとしても知られる。子供の頃から、近所のスナックでよく演歌を歌っていたというエピソードがある。また、岡田自身の思い出に残る曲も前川清の「そして、神戸」である。本人曰く「学校の先生の影響を受けて、好きになった」とのこと。

監督としての特徴[編集]

監督としては博打より堅実を重視し、堅実にいって負けたら仕方がないというスタンスである。競馬も「本命党」とデイリースポーツの競馬予想で答えている。

2004年に投手コーチを務めた佐藤義則が退任する際、「頑固過ぎる、人の意見を聞かない」と苦言を呈したほど。野村克也からは、2006年のシーズン前に「(中日監督の)落合のが常識の野球であって、岡田のほうがよほど変わった采配をしている」と分析されている。野村は2008年の開幕前に刊行した著書『あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由』(角川書店)の中で、岡田がサインを出さず選手任せにしていると金本知憲から聞き「監督の仕事を放棄している」「理解に苦しむ」と記す一方、JFKのリリーフ陣を構築したことは「新しい方程式を作った」として「素直に評価しなければならない」としている。その上でこの「六回までは選手主導でやらせ」るJFKや「選手任せ」は、選手個々の問題意識を高める考え方に基づく可能性があり、もしそうなら名監督となる器かもしれないが、それは今後の阪神の成績が明らかにすると書いている[6]。これに対して岡田は阪神監督退任後の著書『頑固力』(角川SSC新書、2008年)の中で、野村が自分を「何を考えているのかわからない」と言っていることに、「自分では自分なりの野球に対する考え方を持っている」「サインや作戦に作戦に関しても状況に応じて作戦は立てている。当たり前のことだ」「どちらかと言えば野村さんと自分の考えは正反対なのかもしれない」と記している[7]

メジャーリーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスに近い考え方をベースにしたチーム作りを理想とする[8]が、なかなかうまく適用できず、監督就任当初からしばらくは、そのギャップに苦しんでいた節がある。当初は安易な犠打を否定していたが、次第に犠打を重視した采配に変化していくなど、監督経験を積むにしたがっていくつかの軌道修正が見られる。2005年の日本シリーズで阪神と対したロッテのボビー・バレンタイン監督は、シリーズ終了後その時点の岡田を評して「10年前の私を見ているようだ」とした。

阪神を常勝チームに維持させる十字架を背負った岡田であるが、2005年以降はジェフ・ウィリアムスに加え藤川球児久保田智之江草仁貴橋本健太郎ダーウィン・クビアン桟原将司渡辺亮などセ・リーグ1の強力リリーフ陣を擁したことで逆算の野球という画期的な戦いを確立。チームの調子に関わらず終盤まで首位を争える革命的なチームを作り上げ、阪神を真の強いチームとして安定させることに成功。硬直的な采配も、裏を返せば1戦1戦の采配に破綻はないため勝負勘(代打起用の是非)にも定評がある。落合同様「強いチームの監督」をこなしているといえる。

優勝を飾った翌年以降、打撃陣や先発陣の不振をリリーフ陣が補い、1位チームを一時的に追い込む力こそ証明するものの、リリーフ陣の体力崩壊とともにペナント寸前で脱落するといった全く同じケースで2年連続敗退している。ほぼ完成したチームでシーズン開幕当初の打順や守備位置・先発ローテーションなどのフォーマットが変らないことは仕方が無く、今岡誠にチーム最多打点記録を更新させたり、藤川球児とチームの命運を共にする横綱相撲ともいえる戦いぶりには共感を持つものも多い(ただしこの頑固さは、2006年今岡が打率2割前後に沈みながら、金本の後ろを打つ5番打者として動かさずチームの不振を呼び込み、2007年久保田に90試合登板を強いるほどに頑固なため、彼の監督としての手腕を否定するものに関しては、このことを戦略性の欠如ととる者が多い)。

2007年には巨人との最大12ゲーム差を逆転。一時は10連勝で首位にも躍り出ているが、このまま優勝していれば1996年の「メークドラマ」を越える快挙であり、さらに打撃陣の不振により、史上初の得失点差がマイナスでの優勝もありえた。7月には、現実的な投手の陣容は1枚劣るもののリーグ1の攻撃力で首位を走っていた巨人からも、投打に優れた戦力を誇りペナントの本命と目されていた2位中日ドラゴンズからも、直接対決で5勝を奪っている。結局この年まともな働きをしたのはリリーフ陣のみであり、この年の阪神の先発投手が総崩れしたことでビハインドの5回前後で久保田や江草などを投入する傾向が増加したことも結果的にはプラスに働いたと思われる。そのため終盤の失速も予測されてはいたものの、岡田がつくりあげたリリーフ陣がいかに強力かがわかるだろう。

選手のコンディションや相性で打順をいじったり、ローテーションを崩すことは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。事実2004年に金本を四番に据えてから好不調にかかわらず5年間一度も動かしていない。また投手分業のJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果だといえる。反面、選手の著しい不調や怪我での離脱など、不測の事態に対して無策であるとの批判も多く、優勝を逃したシーズンの原因とされることもある。ただし配置した選手が期待通りに動けば連勝することが多く、2006年、2007年も結果的には優勝を逃したものの、シーズン後半の快進撃によって最後まで優勝を争った。良くも悪くも目先の結果にとらわれない頑固なスタイルではあるが、岡田に対する選手の信頼としては高いものがあるようである。

投手・打者の左右の相性にこだわる、いわゆるプラトーン・システム左右病)を積極的に活用する。岡田の投手起用は、大量得点差が付かない限りは「投手への相性の良い打者、そのとき調子のいい打者」よりも「実力・年齢の伯仲している打者ならば左右にあわせ起用」とする場合がほとんどである。

選手起用において、個人記録を重視する傾向が非常に強く、金本知憲の連続試合フルイニング出場、鳥谷敬の連続試合出場の記録更新には全面的に協力する姿勢を貫いている。また、日本新記録となった久保田智之のシーズン90試合登板という常識では考えられない数字も、岡田の記録重視の傾向を示すものと言える。但し赤星憲広盗塁の記録に関しては何故か例外である。公式戦デビューから続く盗塁王の記録は5年連続で止まってしまった。その後もアシスト選手としての起用となり盗塁記録は停滞しているが、これについては彼の首の故障が影響しているものと思われる。

反面トレードやテスト入団で獲得した選手を冷遇する傾向が強い。吉田篤史細見和史竹下慎太郎筒井壮石橋尚到らは1軍で1試合も出場することなく退団、引退しており、立川隆史牧野塁らは1軍試合出場なしの年もあり退団している。

勝利監督インタビューは両手を腰に当て、首を左右にかしげながら答える。ベンチでも頻繁に首をかしげながら試合を見守る姿がテレビで放送されている。

阪神がチャンスをものにした時や、ゲームに勝利した瞬間、ベンチで子供のような笑顔で大はしゃぎする岡田の姿が、たびたびテレビに映し出される。この監督業を忘れたかのような無邪気な姿に「単なる阪神ファンのおっさんが最高の場所からゲームを観戦している」「岡田は阪神のクリンナップを経て、監督にまで上り詰めた世界一(セ界一とも)の阪神ファン」などと言われることもある。これでも監督就任一年目は、不可解な判定にも文句ひとつ言わない割り切ったポリシー等が災いして、どっしりとベンチで構える姿が陰気であるとか、何も考えてないなどと各方面からの中傷を受けた。

他方、阪神ブームに沸いていた期間のメディアや評論家の間での評価は非常に高く、采配を評価されている。

日本シリーズクライマックスシリーズなどの、ポストシーズンでは成績は良くない。2005年の日本シリーズでは、チーム力に勝るロッテに完敗し、2007年のクライマックスシリーズは優勝チームと1位通過チームが別とされていたため、優れた投手陣を完全にスタミナ切れさせてしまった。但し、アジアシリーズではブランクがあり、試合勘が鈍ってるはずのロッテがストレート勝ちで優勝した為、岡田監督が優勝出来ないのは苦しい言い訳となりこの件は揉み消された。関西のメディアは岡田監督を庇い「野球は短期決戦ほど既存戦力や運に左右されてしまうスポーツのため、これをもって岡田の指揮官としての能力を評価するべきではない。」とコメントしている。2008年10月20日、クライマックスシリーズで中日に負けた日、めったに涙を見せない岡田が阪神ファンの最後までの声援もあってか大泣きをした。その翌日の記者会見で「昨日の涙は悔し涙である」と発言した。

退場処分[編集]

2007年6月8日のセ・パ交流戦、対オリックス・バファローズ3回戦(甲子園)で、現役・コーチ及び監督生活を通じて初となる退場処分を受けた。8回裏無死一塁で鳥谷敬の送りバントが一塁方向の小飛球となり、打球を追いかけたキャッチャー日高剛が打席内にいた鳥谷と接触し転倒した。谷博球審はこれを守備妨害と見なし、鳥谷をアウトとした(公認野球規則上の解釈は守備妨害の事例内にある、「打者の守備妨害」を参照)。この判断に抗議した岡田が両手で谷球審の体を突き、暴力行為で退場処分となった。谷球審が「なんでわからんのや!」と声を荒らげたことに岡田がカッとなり、手が出たとされる。また、交流戦で認められた抗議時間は5分だが、この時岡田は16分の抗議をしている。なお、試合は1点ビハインドの9回裏に阪神がオリックスの守護神加藤大輔を攻め、岡田退場の原因となった鳥谷が一死満塁から押し出し死球を受け、2-1とサヨナラ勝ちを収めている。

翌9日、岡田は厳重戒告と制裁金10万円の処分を受けた。なお試合後のインタビューでは「(鳥谷と日高)どっちがぶつかっていったか誰が見ても分かるやろ」と語り、谷球審の判断に納得していない姿勢を示した。さらに阪神の沼沢正二球団本部長は11日、この鳥谷の犠打をめぐる守備妨害の判定についてセ・リーグに要望書を提出した。要望の内容は(1)判定について詳細な説明、(2)審判団の協議、(3)ビデオ判定の導入、と発表された。

同年8月16日の対中日ドラゴンズ16回戦(京セラドーム大阪)の8回裏阪神無死満塁の攻撃で、鳥谷の二ゴロで一塁走者藤原通が二塁封殺されたかを巡り、二塁塁審井野修の胸を突き飛ばし自身2度目の退場処分を受ける。これは荒木雅博が打球をお手玉し、二塁上にいた井端弘和へのトスが遅れ、際どいタイミングになったのが原因である。伏線に6回表中日の攻撃で、堂上剛裕ハーフスイング死球と判定された事が関係しているとされる[9] 。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてのことである[10]。翌17日、岡田は前回の退場劇と同様、厳重戒告と制裁金10万円を科された[11]。この件について阪神の沼沢正二本部長は同日、審判員の技術向上を求める要望書をセ・リーグに提出。沼沢は「昨年も言ったが、審判技術向上のためならチームも協力する。ビデオ判定はあえて要望書に入れなかった。ビデオを見るまでもなくセーフだった」と語っている。

成績[編集]

年数 出場試合数 通算打率 通算打数 安打数 本塁打数 打点数 得点数 三振数 盗塁数 四球数 死球数
16年 1634 .277 5496 1520 247 836 729 767 76 624 39

[12]

獲得タイトル[編集]

注釈[編集]

  1. 宝島社『別冊宝島 プロ野球名選手読本』1998年
  2. 2008年11月16日放送『SUPERうるぐす』「独占告白 阪神 岡田前監督 辞任の真相」
  3. 『頑固力』p.73
  4. 2007年11月3日付日刊スポーツ阪神岡田監督「オレ流継投」を擁護」より[1]
  5. 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年6月30日号20-23ページ「5年目岡田野球の変貌」
  6. 『あぁ、阪神タイガース』P178~184。野村はこうした選手主導のやり方を「アメリカン・スタイル」と記し、メジャーの影響かもしれないと書いている。
  7. 『頑固力』P132
  8. 岡田は著書『頑固力』の中で、セイバーメトリクスに関する本を読んだことはなく、文献や理論の存在を知ったのもあとからであって、自分の実践した野球が「少し、セイバーメトリクスを使った野球に重なっていた」と記し、「セイバーメトリクスの戦略を用いている」という巷間の噂は「正しく言えば、それは間違いである」としている(同書P61~62)。
  9. 「だれが見てもセーフやろ!バカな岡田監督“誤審”にブチ切れ、退場」プロ野球ニュース・イザ
  10. 「過去いないセ日本人監督シーズン二度」 日刊スポーツ
  11. 「セ・リーグ、頭の悪い岡田監督に制裁金10万円=阪神は審判技術向上を要望」Yahoo!ニュース
  12. http://nipponbaseball.web.fc2.com/personal/batter/okada_akinobu.html