魏 (三国)

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(ぎ、220年10月 - 265年12月)は、中国三国時代華北を支配した王朝。終盤の2年間を除いて華北の大半を支配し、を滅ぼして華北と西南部を支配した。三国時代における最強の王朝であるが、5代45年とその支配は短期間であった。曹氏が支配した王朝であることから、他の魏王朝と区別するために曹魏(そうぎ)と言われることが多い(あるいは前魏(ぜんぎ)など)。首都洛陽

歴史[編集]

創設・曹操の時代[編集]

魏の実質的な創設者である曹操後漢王朝の家臣であったが、後漢王朝が衰退して184年黄巾の乱が発生した際、政府軍の将軍のひとりとして功績を立てた。その後、董卓の専横を経て中央が乱れると、曹操は群雄として割拠して勢力を拡大。196年に董卓の残党の手から逃れていた後漢の皇帝である献帝を擁立して自らの本拠地である許昌遷都し、さらに後漢の保護者という大義名分を手に入れて諸国の群雄を次々と滅ぼしてゆく。197年には郭汜198年には李傕張楊呂布199年には袁術らをそれぞれ滅ぼし、華北南部を制覇した。しかし、この勢力拡大は華北北部に割拠していた袁紹の南下を招き、200年官渡の戦いが勃発することになる。曹操の所領は黄巾・董卓らの暴政により荒れており、肥沃で地の利に恵まれていた袁紹が兵力・国力・軍事力の全てにおいて勝っていたが、曹操は袁紹を大いに破り、華北北部に撃退した。さらに202年に袁紹が病死し、その後釜をめぐって遺児の袁譚袁尚が骨肉の争いを繰り広げるという好条件にも恵まれ、曹操は北上して205年に袁譚を、207年には袁尚をそれぞれ滅ぼした。この間において、張繍公孫康といった群雄も曹操に服従しており、曹操は事実上華北制覇を成し遂げ、最大の勢力者となった。この最大勢力を背景にして、208年には後漢の丞相に就任し、実質的にも名目的にも最高権力者として君臨することになる。

同年、曹操は中国統一を果たすべく、南に残る劉表孫権らの征伐を企てる。劉表は曹操が南下した頃に病死し、その遺児の劉琮は曹操に降伏し、曹操は荊州を制覇する。ところが、劉表の客将として荊州にあった劉備が荊州における反曹操勢力を結集し、さらに江南に割拠していた孫権と手を結んで徹底抗戦する。曹操は大軍を江南に差し向けて劉備と孫権を滅ぼそうとしたが、赤壁の戦いにおいて疫病の流行と水軍に不慣れな曹操軍は敗北を喫してしまい、曹操は華北に撤退することを余儀なくされた。

以後、曹操は孫権・劉備連合軍と戦うも、決定的な勝利を収めることはできなかった。なお、この最中にも張魯馬超らの群雄を滅ぼして勢力を拡大し、216年には魏王に就任した。219年には劉備軍の関羽による北上で一時的に危機に陥るが、江南の孫権と逆に手を結んで関羽軍を挟撃することで撃退している。220年1月、曹操は病死して、卞氏との間の長男である曹丕が魏王・丞相の地位を継承した。

成立と全盛期[編集]

既に魏王朝は後漢王朝の内部を食い尽くす形で曹操の時代に成立しており、後は皇帝の位を献帝から譲られるのを待つばかりとなっていた。220年10月、曹丕は献帝からの禅譲(事実上は簒奪)を受けて皇帝に即位し、正式に魏を建国した。

曹操の時代に王朝としての機能は既にほとんど整備はされていたが、曹丕の時代にはそれがさらに充実し、本格的な王朝としての体制は曹丕の時代に完成したといってよい。また曹丕の時代には父・曹操の時代から従う名将・名臣に恵まれて国力は充実した。曹丕の時代には運のいいことに劉備と孫権が対立して、両国とも魏に対峙することはできなかった。この曹丕の時代が一般的には魏の全盛期とされている。

曹丕は充実した国力・軍事力を背景にしてたびたび孫権の江南に攻め入るが、軍事的な才能に恵まれていなかったのかこれらの遠征は全て孫権軍に撃退され、呉王に封じた孫権に独立されてしまった。また、弟の曹植を冷遇したように親族を藩屏とすることを拒んだ。

226年5月、曹丕は在位わずか6年で崩御し、長男の曹叡が第2代皇帝として即位することになった。曹叡は即位当初は司馬懿を中央から遠ざけるなどのところがあったが、長じて祖父の曹操、父の曹丕に劣らぬ人物となり、の孫権や司馬懿が西方を伺わない[注 1]隙を突いた劉禅諸葛亮)の侵攻を全て撃退した。238年には遼東で孫権と手を結んで反乱を起こした公孫淵(公孫康の子)を滅ぼし、北方を完全に制覇する。また、この曹叡の時代に日本邪馬台国卑弥呼が曹叡に対して使者を派遣している。

曹叡の時代も引き続き魏の全盛期であったものの、彼も父親と同じように寿命には恵まれず、239年に若くして崩御してしまった。

衰退・滅亡期[編集]

曹叡の死後、第3代皇帝として即位したのは養子とされる曹芳であった。しかし、曹芳は即位時点で8歳の少年であり、そのため曹叡の遺言で重臣の司馬懿皇族曹爽が後見することになった。しかし、曹芳はこれまでの皇帝と比較して明らかに暗愚であり、また後見人が事実上の皇帝として権勢を振るうも同じ状態となった。曹芳の即位後、司馬懿は太傅となって中枢から一時遠ざかり[注 2]、曹爽が権力争いで優位に立っていたが、司馬懿は雌伏して時を待ち、249年正始の変と称される宮中クーデターを起こして曹爽とその一族、並びに側近などをことごとく粛清して実権を掌握した。ただ、これ以後は司馬氏に完全に魏は乗っ取られたも同じとなり、皇帝は完全に傀儡と化してゆく。

251年に司馬懿は死去し、長男の司馬師が権力を引き継いだ。254年、皇帝の曹芳は傀儡としての地位に不満を持ってクーデターを計画するも、事前に発覚して賛同者はことごとく粛清され、曹芳は廃立されて第4代皇帝に明帝の甥の曹髦が擁立された。255年に司馬師は死去し、弟の司馬昭が権力を引き継ぐ。しかし成長した曹髦が傀儡としての立場にやはり不満を抱き、260年にクーデターを決行するも、既に魏の大半が司馬氏に乗っ取られている状態であったために逆襲されて殺された。司馬昭は曹髦に代わる新たな皇帝として、明帝の従弟の曹奐を擁立する。この間に毌丘倹諸葛誕など、反司馬氏勢力による反乱が何度が勃発しているが、それらは司馬懿・司馬師・司馬昭らによってことごとく鎮圧され、逆に司馬氏の権力が強化されてしまう結果となっている。

263年、司馬昭は、魏軍を姜維の度重なる出兵で国力が衰えた蜀に南下させ、劉禅を降伏させてこれを滅ぼした。これにより魏の領土は最大となる。

265年8月、皇帝を傀儡として既に禅譲を待つのみであった司馬昭であったが、その直前に急死することになる。跡を継いだのは長男の司馬炎で、司馬炎は曹奐に禅譲を強要し、これにより12月に魏は滅亡して西晋が成立することになった。

曹奐は前皇帝として助命され、302年に天寿を全うした。

魏の皇帝の一覧[編集]

代数 廟号 諡号 姓名 在位 元号 陵墓 即位前の爵位 退位後
高皇帝 曹騰 季興 漢の費亭侯
太皇帝[1] 曹嵩 巨高 漢の費亭侯
太祖 武皇帝 曹操 孟徳 高陵 漢の魏公
→漢の魏王
1 高祖[2] 文皇帝 曹丕 子桓 220年 - 226年 黄初 220年-226年 首陽陵 漢の魏王
2 烈祖 明皇帝 曹叡 元仲 226年 - 239年 太和 227年-233年
青龍 233年-237年
景初 237年-239年
高平陵 斉公
→平原王
3 厲公 曹芳 蘭卿 239年 - 254年 正始 240年-249年
嘉平 249年-254年
斉王 斉王
→晋の邵陵県公
4 曹髦 彦士 254年 - 260年 正元 254年-256年
甘露 256年-260年
高貴郷公
5 元皇帝 曹奐 景明 260年 - 265年 景元 260年-264年
咸熙 264年-265年
常道郷公 晋の陳留王
  • 曹騰は太和三年に追号された。
  • 曹嵩は黄初元年に追号された。
  • 曹操は黄初元年に追号された。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 三国志演義』の創作では、曹植擁立の檄文によって司馬懿が免職される場面が描かれているが、史実では無いと見られている。曹叡時代初期の司馬懿は荊州で孫権軍と対峙していた。
  2. 太傅になったことが遠ざけられたことについては諸説がある。少なくとも司馬懿は軍権はそのまま維持を許され、入朝不趨をはじめとする臣下としての特権も与えられている。また、呉の諸葛恪も孫権の死後に孫亮の下で実権を握るがその際に就いた役職が太傅であり、これから考えても太傅=遠ざけられたは考えにくい。

出典[編集]

  1. 三国会要』では大皇帝とある。
  2. 資治通鑑』・『三国会要』・『歴代帝王廟諡年諱譜』では世祖とある。