公孫康
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公孫 康(こうそん こう、生没年不詳)は、中国の後漢末期に遼東に割拠した群雄。父は公孫度。弟に公孫恭。子に公孫晃・公孫淵。
生涯[編集]
遼東郡襄平県の出身[1]。204年に父が死去したため遼東太守の地位を受け継ぎ、同年に楽浪郡の南部を割いて帯方郡を設置し朝鮮半島に勢力を拡大した[1]。
207年に袁煕と袁尚の兄弟が曹操に敗れて亡命してきた際、兄弟が公孫康を殺して遼東支配を計画したため、逆に兄弟を殺してその首を曹操に差し出し、その功績により曹操から襄平公・左将軍に任命された[1]。
後に文帝からも大司馬を贈られている。死後は息子が幼少のため、弟の公孫恭が跡を継いだ[1]。